海景 20-044 凪

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    あの浜の陰影への憧憬

    どこに腰を落ち着け暮らすか無頓着ではいられない。どこでもよいと言う人はいるが、それでも交通の便や地形など比較して住処を決めているはずだ。しかし住み暮らす場所を決めるのはなかなかにむづかしく理想通りにならないのは誰もが経験している。私もまた現実に突き返されつつ居住地を決めて現在に至っている。

    そして海を見たいと思い、海のそばでの暮らしを夢想している。たとえば砂が豊かな浜がある場所だ。

    九十九里浜は全長70キロメートルに及ぶ関東を代表する砂浜だ。九十九里および銚子は、江戸時代に紀州和歌山から数多く人々が移り住んで文化をかたちづくり、方言にも地名にも彼の地の影響が色濃く残っている。九十九里浜の南端から先、勝浦、鴨川もまた紀州の影響濃い地域だ。これだけ多くの移民を受け入れられられたことを考えると無住の地ではないが住人が少なく土地にも余裕があったことが推察できる。

    また彼らが定着後に漁労に就いて大いに活躍しても、現地に古くからいる人々と派手な衝突を演じずに済んだのは土地にも業にも隙間があったからと言えよう。

    それでも上総国、下総国ともに歴史があり古代末期から中世にかけて地方有力者の支配と抗争が続き諸豪の動きはきわめて流動的だった。猛々しいだけでなく実に忙しい。房総半島と半島の付け根に価値がないならここまで賑やかであるはずがなく、賑やかに動き回っているのは人なのだから住み暮す者が多くいたことになる。なお上総国の東端、下総国の東端が現在の九十九里の浜で、海岸線の全長のほぼ半分ほどで両国が接していた。現在の横芝光町の栗山川を上総と下総の境界とみなしてよい。

    では太平洋に面した九十九里浜一帯がどうであったかとなると、なにを生きる糧にして住み着いたらよいか難しい砂に深く覆われ河川が少なく水利が悪い土地だった。大人数の腹を満たせないなら自ずと住人の数は少なくなる。また紀州からイワシを追って外房にたどりついた人々はとうぜん漁労に就くが、魚介だけで暮らしが整うはずがない。しかも江戸時代ともなれば貨幣経済が興隆する。

    やがて鰯を干した干鰯が肥料として綿花栽培に使われるようになり需要が増すと、外房は貨幣経済の大きな歯車に組み込まれるが最終製品の綿や綿織り物を扱う商人ほどに地域一帯の人々の暮らし向きが豊かにならなかった。九十九里浜一帯が甘藷(さつまいも)の試作地にされたのも、何らかの農作物が、江戸時代であれば稲作が盛んに行われ収量も多ければありえないことだった。

    東日本に甘藷を普及させるきっかけをつくった青木昆陽は江戸小石川の養生所(現・小石川植物園)、下総国馬加村、上総国不動堂村の三か所で甘藷を試作した。昆陽が下総、上総に赴いた日数はのべ一週間ほどと記録されているが、幕府の事業として彼が栽培を指導した事実まで否定されるものではない。

    馬加村は現在の幕張で、とうぜん広大な埋立地がつくられる前であり関東ローム層の赤土地帯を大きな砂丘が縁取っていた。不動堂村は現在の山武郡九十九里町で天領であったことは試作地の選定に重要な意味を持っているが、稲や麦の栽培に向かない場所で救荒作物としての甘藷が収穫可能か試す意図があった。だが不動堂村での試作は馬加村ほどの成果があげられなかった。それほど環境が過酷だったのだろう。

    山武郡九十九里町の不動堂海水浴場近くに[関東地方甘藷栽培発祥の地碑]があるが、試作地としては昆陽神社がある幕張のほうが知られているのかもしれず、理由は試作の成果の大きさにあるとみてよい。それでも粟と黍がかろうじて収穫できるだけだった不動堂では、秋になり芋蔓を抜き取って地下から出てきた甘藷に村人が歓喜したと伝えられている。その後いくらか栽培技術が向上しただろうし、享保の大飢饉では甘藷があったおかげで一帯から餓死者は出なかった。

    「昔は牛を飼って凶作のときでも乳飲み子を飢えさせずに済むようにしていた」という意味の話を九十九里浜周辺で聞いたことがある。九十九里地域には前述のように水源とよべるほどのものがなく、利根川水系に頼らなくてはならないが規模と距離を考えると途方もない。昭和に入り立て続けに大旱魃があり用水が企画立案されても規模が大きすぎると国が着工を認めず、工事がはじまるのは昭和25年になってからだった。一応の完成をみるのは昭和40年だが、いまだ用水整備事業は完全とは言い難い。

    現代の不動堂また豊海と呼ばれる海岸近くに漁師町はない。小舟なら砂浜にあげられるが、内燃機関で動く大型化した漁船は港に停泊させるほかない。九十九里のような砂浜に漁港をつくるのは難しく、不動堂の北にある作田川河口の作田漁港が唯一の港だ。この作田漁港にしても、豊海にアメリカ軍の高射砲演習場がつくられ拠出された掃海漁業補償金を、演習場が中止されたあと基金としてようやくつくられたのだった。

    高射砲演習場は砂浜と民有地を接収して90ヘクタールの基地とし、海上へ向けて高射砲を打つものだった。このため銚子沖から南は大原沖まで、九十九里の全漁場が演習地となり漁民は漁場を奪われた。さらに発射音と振動がひどく住民の生活が疲弊したことで、地元民の反対運動は苛烈さを増し千葉県議会は「射撃場撤廃に関する決議」を採択するまでに至る。

    漁業は作田漁港に集約され、まだ十分ではないとしても用水のおかげで水田と畑作が行われ、現在は住宅や商店などが都会とは段違いに高い空の下に低く広く連なっている。[関東地方甘藷栽培発祥の地碑]もまた、こうした農地と宅地が入り混じる界隈にある。ここに甘藷に救われ乳飲み子のため牛を飼った切羽詰まった切実さはない。だが黒潮流れる太平洋からの光に満ちながら渋さと苦さが独自の陰影を与えているのに気づかされる。

    海の近くで暮らす夢想から話をはじめ、歴史を振り返ったのには理由がある。

    九十九里へモデルさんを連れてはじめて出かけた二十代のとき、そこは私の意識のなかでは夏ともなれば海水浴場になる遠大な砂浜でしかなかった。どんよりした肌寒い日で、浜辺での撮影は別として移動中に通過する町の静けさや渋さと言うほかない雰囲気が印象的だった。天候の悪さだけでなくオフシーズンだからこんなものだろうと、そのときは思った。つまり土地の来歴を知って渋さ苦さを実際の風景に重ね合わせているのではなく、何も知らず撮影の移動中の町並みを見るだけで感じられるものだった。

    いまなお私が九十九里に惹かれる理由は、渋さと苦さが独自の陰影をかたちづくっているからだ。

    九十九里一帯の渋さと苦さは、人の年齢なりの風貌と同じものであって暗さや陰惨さではない。若いのびのび育った生まれたままのものを多く保っている人もわるくないが、おじさん、おばさんのよさというものがあるのと同じだ。過去から現在までの過酷さや理不尽さによって悪相にはなっていない。

    ふたたび歴史を遡れば、この国の中央集権制は米の収穫と徴税を軸にしたものとしてはじまり、支配層にとって米が生産できない土地の無意味さは、そこに人や物が存在しても目に映らないほどではなかったかと思う。それは往々にして海辺であった。沼と化す潟、砂深い浜だ。狩猟採取の民を定住させ稲作の民へ変えて行っても、海辺には漁労の民、大海を渡る交易の民が存在し続けた。彼らは統治の外にある化外の民で、そこに人がいても中央の意識から排除されていたのではないか。

    海に対して抱く印象は人それぞれだろうが、非日常的で、現体制と切り離されたような感覚は程度の差こそあれ共有されているはずだ。アウトローと港、船乗り、漁師、海辺の世界へ逃亡をはかる人という設定はエンターテインメントのあらゆる分野で頻出する。これはやや強引かもしれないが、古代から江戸まで続く米を軸にした支配と被支配、あるいは経済の外に海辺があったことが関係していると私は考えている。

    和歌山から漁民が移り住んで定住できたこと、甘藷に頼らざるを得ない地に人々が暮らしていたこと、戦後高射砲演習場として一帯が接収され漁場を追われたこと、網元と漁夫という独自世界が戦後まで続いていたことなどから現代の千葉県が抱えるさまざまな課題に至るまで、中央集権と米という切り口で読み解くと筋が通った解釈ができそうな気がする。

    この過酷さと理不尽さが、渋さと苦さによって描かれる独自の陰影の正体である。

    私が海辺で魂が救われて行くのを感じるのは、誰かまたは何かの外へ移動したからで、誰か何かの意識から排除されるからだ。それが幻であったとしても化外の民になったのを喜んでいるのだ。

    加藤(文)文宏 / Fumihiro Bun Kato 写真家・作家 / Photographer Author ・北海道北見市生まれ。 ・大学卒業時までに詩集「無題あるいはサラバ」、同「Cadenza」発表(共に絶版、在庫なし。「Cafebza」別装丁私家版のみあり)。 ・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画・取材、Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告、武田薬品工業広告、他。 ・長編小説「厨師流浪」で作家デビュー。小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・各メディアにおけるスチル撮影。 ・オリジナルプリントの製作、販売。 ・JSAHP正会員
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