砂と荒涼と花

Sea, Sand, Silence and Flowers.

About

2019_10 (1シリーズ

タイトルをクリックあるいはタップした先で各作品個別に画像を拡大することができます/ 2019年秋季の(いくつかのテーマを横断していますが)新しいシリーズ作品です。当ページ投稿日以前に個別に掲載した作品と、後日個別に掲載する予定のもの、個別掲載の予定がないものを一覧できるようにまとめました。

惑星と文明 19-027 時間は砂となって降り積もる

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ なぜ、ここにパイプでつくられた柵があるのか。なんとなく理由がわかる気もするし、まるっきり見当はずれの想像をしているのかもしれない。[……]私にとっての意味、それは永遠にわからないまま。

Past Light 2019-002

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ 干潟に鳥がいた。一羽が舞い降り、しばし群れの静謐がやぶられる。……どれくらいぼんやりしていただろうか、西の空からまた一羽が舞い降りた。まるで永遠の繰り返しのようだった。

惑星と文明 19-026 時間は砂となって降り積もる

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ サーフィンはポリネシア人によってはじめれたと言われる。日本に古くから瀬のし、板子乗りなどと呼ばれる波乗り遊びがあったので、海洋民族に共通する風俗なのかもしれない。ポリネシアに到達した宣教師たちは、人々の風習……

惑星と文明 19-025 時間は砂となって降り積もる

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ メキシコ・チワワ州の砂漠地帯に自生するユッカ、和名アツバキミガヨランの一族がいまこの場所、私の目の前にある。U2のアルバムタイトル、ヨシュア・トゥリー(ジョシュア・ツリー)も同族の植物だ。生物にとっての距離としては果てしなく遠く……

Past Light 2019-001

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ 正直なところ、私は他人を容易に信じられなくった。誰だって見ず知らずの他人を信頼できないだろうが、わざわざこんなことを書くくらいに信じられなくなったのだ。とはいえ冷徹に徹するのも叶わず、なんだからつらい思いをさせられる。柄にもなく悲しくなったから、この写真を撮影した。

惑星と文明 19-022 時間は砂となって降り積もる

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます / どこから来たのか。どこへ行くのか。私は彼を見ている。どこから来たのか。どこへ行くのか。張り渡された電線を見ている。何のために。誰のために。どうして。私は世界の前に立ち尽くす。

ハナ 19-007

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ セージは多年草または低木に分類されているので越冬してとうぜんなのだが、昨年の夏かなり弱り、冬を越した春には見る影もなくなっていたので煩わしいほど茂るとは思いもよらなかった。今年になるまでなぜか撮影する気になれなかったが、いやらしい雑草然とした様子を見ていたら時来たりと感じたのだ。

惑星と文明 19-021 時間は砂となって降り積もる

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます / 人類はアフリカ大陸で誕生した後、数10万年をかけてユーラシア、アジア、南北アメリカ、オセアニアへ移動した。なぜ行くのか? Homo Mobilitas / ホモ・モビリタスだからというほかない。

惑星と文明 19-020 時間は砂となって降り積もる

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます / 懸念が標識ロープのかたちとなって放置されている。懸念は期待と表裏一体の関係にある。人を避けてここまできたけれど、私は人間の存在を求めていたのだ。そして画角内に人物が紛れ込んでいないのに満足している。目も当てられないほどひどい矛盾であるのは承知している。

七歳、新潟、砂の記憶 19-005

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ 思い出はいつだって完膚なきまでに打ち砕かれると決まっている。子供の背の高さで見た風景、歩幅で歩いた場所は大人では体験できないものだ。大人になって追体験できるものはほとんど存在せず、時代もまた残酷なまでに景観を変える。博物館にも図書館にも記憶が保存されているはずもなく、展示や書庫にあるものは他の誰かの記憶だけだ。しかし新潟の太陽は私を裏切らなかった。

七歳、新潟、砂の記憶 19-004

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ どこでもない、いつでもない。なんて真顔で言えば正気ではないと思われるに違いない。どこでもない場所をこれといった目的もなく歩く自由がないなんて悲しい。賢いふりをするため、場所の名前、意味、区分けばかり考えて不自由きわまりない自縄自縛になるくらいなら馬鹿なままのほうがよっぽどよいだろう。私はどこでもない場所を目指す。私は見たいものを見たいように見る。

七歳、新潟、砂の記憶 19-003

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ 漂着物なのか元からここにあったのか。ボトルの表面は磨りガラス状に摩滅していた。まさか私が小学生だった時代からここにあったのではないだろうが、ボトルとしての役目を終えてから数十年経過していたとしても不思議ではない。ずっとそばにいてやりたい気がした。陰までも愛おしい。

七歳、新潟、砂の記憶 19-002

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/海へまっすぐ続く道はずっと上り坂だった。坂を上った先に海があるというのも不思議な話で、あの頃は疑問をいだかなったが他にあまり例のない地形と言える。新潟とは新しい潟の意であり、潟は砂州などで囲まれた水たまりあるいは泥濘地のことだ。海水ならラグーン(lagoon)であるが、こうした泥濘地は水田として利用されていたので真水で満たされていたわけだ。

七歳、新潟、砂の記憶 19-001

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/いよいよあと数年で半世紀まえの出来事になろうとしている。半世紀まえの自分について考えることになろうとは、ほんの最近まで考えもしなかったし、50年という歳月が恐ろしくも感じられる。

具象を拒絶する海景 19-003

生まれるまえの人生で見た場所だ。この浜に私は舟を寄せ八洲に上陸した。A3(近似)額装なし。 詳細ORIGINAL PRINT🔗をご覧ください。5,000 +消費税 © Fumihiro Kato / Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited. All Rights Reserved.

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