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静けさが海を支配していた。誰もいない。くる気配すらない。焚き火のあとが晩夏の痕跡として磯から続く小さな浜にあるばかりだった。外海を岩礁が隔てた内側はどこまでも澄み切った水が輝いていた。
いつからこんなに関東の磯はきれいになったのだろう。公害という言葉とヘドロやスモッグの禍々しさを子供のとき刷り込まれた私は、大人になってもどんなに美しい海水を見ても疑いの念を払拭できずにいた。そして思う、いま幼年時代を送る子供たちは漂うウイルスへの不安を刷り込まれるのか。
子供だった私はテレビが伝える映像と言葉で公害を知り、鉄道で田子ノ浦を通過するたび臭いで感覚と結びつけられ、劇場映画のゴジラ対ヘドラで具象的な像として固定された。新潟の海岸に座礁したタンカーの巨体と流出原油を見て、公害を救いようのないものと思う気持ちは決定的なものになった。
その後、この国に自然への回帰を過剰に訴える声や、反ワクチンや標準的な医療を否定するおかしな潮流が生じた背景に私と同世代のある種の感覚が作用しているのを感じる。もちろん同世代の心底に澱をなして沈んでいる公害への不安以外にも、こうした流れを生んでいるのは間違いない。ただ、やはり影響は大きいのではないかと思わざるを得ない。
呪いの言葉を投げつけるつもりはない。だが、戦争を経験した子供、公害を経験した子供、新型コロナ肺炎禍を経験した子供とそれぞれが直面したものがいずれ世界をかたちづくる原料になる。つまり、そういうことだ。
冬の海を前に、つまらないことを思った。もしかしたら、撮影が難しい状況が再び訪れるかもしれないとも考えた。つくづく自分が嫌になった。冬の海が光、ここには私しかいないというだけでよいではないかと。Silence reigned in the Sea. [城ヶ島 南岸]
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