七歳、新潟、砂の記憶 19-002

七歳の私は自転車に乗って小針の砂丘へ出かけて、これといって何もせず砂の丘を歩き回っていた。

海へまっすぐ続く道はずっと上り坂だった。坂を上った先に海があるというのも不思議な話で、あの頃は疑問をいだかなったが他にあまり例のない地形と言える。

新潟とは文字通り新しい潟を表し、潟は砂州などで囲まれた水たまりあるいは泥濘地である。海水ならラグーン(lagoon)だが、新潟の泥濘地は水田として利用されていたので真水で満たされていたわけだ。

泥濘地はいずれも深く、耕作するにはたいへんな労力が必要で危険でさえあった。泥濘地の改良と河川の改修を重ね、新潟は大穀倉地帯になったのである。

このように砂丘からずっと内陸まで砂が続き、転々と広大な泥濘地が広がっていたのが古い時代の新潟市の姿だ。私が住んでいた社宅も庭はすべて深い砂だったし、スイカ畑も砂地で、小学校近くの水田は泥濘地のなごりで標高も低かった。

私が自転車にのって海を目指した道は、かつては防砂林で行き止まりになっていた。ここからは松の木の合間に打ち捨てられている真っ赤に錆びた機械の残骸を見物したり、行ったことのない方向へ逸れてみたりしながら砂丘を目指した。この道は現在国道402号線につながり、周囲は随分ひらけた場所になっている。

小さな砂の丘、大きな砂の丘と上っては下りを繰り返すと眼前に海が広がった。これもまたあたりまえとすら思いもしなかったが、水平線の方向に太陽はなく均一な明るさの空が真っ平らな海と接していた。

この景観、この太陽、この空が私にとっての自然である。いまだに身体のなかに太陽の運行、時間の経過、季節のめぐりとして息づく自然なのだ。そして太平洋側での暮らしが長くなり、ずっと何かが違うと身体が感じていた原因でもある

作品への質問や購入に関してのご相談などはこちらへ。

価格はお問い合わせください。

    お選びください (必須)

    加藤(文)文宏 / Fumihiro Bun Kato 写真家・作家 / Photographer Author ・北海道北見市生まれ。 ・大学卒業時までに詩集「無題あるいはサラバ」、同「Cadenza」発表(共に絶版、在庫なし。「Cafebza」別装丁私家版のみあり)。 ・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画・取材、Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告、武田薬品工業広告、他。 ・長編小説「厨師流浪」で作家デビュー。小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・各メディアにおけるスチル撮影。 ・オリジナルプリントの製作、販売。 ・JSAHP正会員
    投稿を作成しました 281

    関連する投稿

    検索語を上に入力し、 Enter キーを押して検索します。キャンセルするには ESC を押してください。

    トップに戻る