七歳の私は自転車に乗って小針の砂丘へ出かけて、これといって何もせず砂の丘を歩き回っていた。
海へまっすぐ続く道はずっと上り坂だった。坂を上った先に海があるというのも不思議な話で、あの頃は疑問をいだかなったが他にあまり例のない地形と言える。
新潟とは文字通り新しい潟を表し、潟は砂州などで囲まれた水たまりあるいは泥濘地である。海水ならラグーン(lagoon)だが、新潟の泥濘地は水田として利用されていたので真水で満たされていたわけだ。
泥濘地はいずれも深く、耕作するにはたいへんな労力が必要で危険でさえあった。泥濘地の改良と河川の改修を重ね、新潟は大穀倉地帯になったのである。
このように砂丘からずっと内陸まで砂が続き、転々と広大な泥濘地が広がっていたのが古い時代の新潟市の姿だ。私が住んでいた社宅も庭はすべて深い砂だったし、スイカ畑も砂地で、小学校近くの水田は泥濘地のなごりで標高も低かった。
私が自転車にのって海を目指した道は、かつては防砂林で行き止まりになっていた。ここからは松の木の合間に打ち捨てられている真っ赤に錆びた機械の残骸を見物したり、行ったことのない方向へ逸れてみたりしながら砂丘を目指した。この道は現在国道402号線につながり、周囲は随分ひらけた場所になっている。
小さな砂の丘、大きな砂の丘と上っては下りを繰り返すと眼前に海が広がった。これもまたあたりまえとすら思いもしなかったが、水平線の方向に太陽はなく均一な明るさの空が真っ平らな海と接していた。
この景観、この太陽、この空が私にとっての自然である。いまだに身体のなかに太陽の運行、時間の経過、季節のめぐりとして息づく自然なのだ。そして太平洋側での暮らしが長くなり、ずっと何かが違うと身体が感じていた原因でもある
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