タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ 境界があるとすれば、この体の内と外だけである。新潟、五十嵐、海景。
七歳、新潟、砂の記憶 19-006
タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ 距離と存在が孤独を生じさせる。
七歳、新潟、砂の記憶 19-005
タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ 思い出はいつだって完膚なきまでに打ち砕かれると決まっている。子供の背の高さで見た風景、歩幅で歩いた場所は大人では体験できないものだ。大人になって追体験できるものはほとんど存在せず、時代もまた残酷なまでに景観を変える。博物館にも図書館にも記憶が保存されているはずもなく、展示や書庫にあるものは他の誰かの記憶だけだ。しかし新潟の太陽は私を裏切らなかった。
七歳、新潟、砂の記憶 19-004
タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ どこでもない、いつでもない。なんて真顔で言えば正気ではないと思われるに違いない。どこでもない場所をこれといった目的もなく歩く自由がないなんて悲しい。賢いふりをするため、場所の名前、意味、区分けばかり考えて不自由きわまりない自縄自縛になるくらいなら馬鹿なままのほうがよっぽどよいだろう。私はどこでもない場所を目指す。私は見たいものを見たいように見る。
七歳、新潟、砂の記憶 19-003
タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ 漂着物なのか元からここにあったのか。ボトルの表面は磨りガラス状に摩滅していた。まさか私が小学生だった時代からここにあったのではないだろうが、ボトルとしての役目を終えてから数十年経過していたとしても不思議ではない。ずっとそばにいてやりたい気がした。陰までも愛おしい。
七歳、新潟、砂の記憶 19-002
タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/海へまっすぐ続く道はずっと上り坂だった。坂を上った先に海があるというのも不思議な話で、あの頃は疑問をいだかなったが他にあまり例のない地形と言える。新潟とは新しい潟の意であり、潟は砂州などで囲まれた水たまりあるいは泥濘地のことだ。海水ならラグーン(lagoon)であるが、こうした泥濘地は水田として利用されていたので真水で満たされていたわけだ。
七歳、新潟、砂の記憶 19-001
タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/いよいよあと数年で半世紀まえの出来事になろうとしている。半世紀まえの自分について考えることになろうとは、ほんの最近まで考えもしなかったし、50年という歳月が恐ろしくも感じられる。