七歳、新潟、砂の記憶 19-005

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ 思い出はいつだって完膚なきまでに打ち砕かれると決まっている。子供の背の高さで見た風景、歩幅で歩いた場所は大人では体験できないものだ。大人になって追体験できるものはほとんど存在せず、時代もまた残酷なまでに景観を変える。博物館にも図書館にも記憶が保存されているはずもなく、展示や書庫にあるものは他の誰かの記憶だけだ。しかし新潟の太陽は私を裏切らなかった。

七歳、新潟、砂の記憶 19-004

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ どこでもない、いつでもない。なんて真顔で言えば正気ではないと思われるに違いない。どこでもない場所をこれといった目的もなく歩く自由がないなんて悲しい。賢いふりをするため、場所の名前、意味、区分けばかり考えて不自由きわまりない自縄自縛になるくらいなら馬鹿なままのほうがよっぽどよいだろう。私はどこでもない場所を目指す。私は見たいものを見たいように見る。

七歳、新潟、砂の記憶 19-003

タイトルをクリックあるいはタップした先で画像を拡大することができます/ 漂着物なのか元からここにあったのか。ボトルの表面は磨りガラス状に摩滅していた。まさか私が小学生だった時代からここにあったのではないだろうが、ボトルとしての役目を終えてから数十年経過していたとしても不思議ではない。ずっとそばにいてやりたい気がした。陰までも愛おしい。

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