311への旅 毎日新聞の報道から考える

2017年9月12日毎日新聞報道地方版「6年半 県内、依然196人不明 100人態勢で捜索 /福島」https://mainichi.jp/articles/20170912/ddl/k07/040/108000cと題する記事に「津波で31人が行方不明になっている浪江町。東京電力福島第1原発の北約5キロにある請戸地区では、原発事故のためしばらく救助や行方不明者捜索ができず、行方不明者が多い。警察官や双葉広域消防本部職員ら計約60人が慰霊碑前で黙とうした後、請戸地区での捜索活動を始めた。」と書かれている。2013年5月に発見された遺骨が最後となり、記事となった2017年9月11日の捜索では新たな亡骸の発見には至っていない。10月に同地を撮影した私が見たものは、造成間もない新興住宅街のような整地された街区と整備作業、セイタカアワダチソウが茂る依然として手付かずの荒野だった。報道された捜索は請戸地区の内陸側西にある小さな山のそばと思われ、除染と整備作業済みの街区がかなりの面積を占めていことを思うと残された最後の捜索場所と言えるだろう。発見の可能性が皆無になった訳ではないが、ほぼ探し尽くされたうえでの未発見なのだ。記事を締めくくる県警災害対策課の「行方が分からない人と、彼らを待つ家族がいる限りは捜索を続け、発見に努める」とする言葉に重く痛切な思いを感じずにはいられない。

現在の浪江町の状況については「311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 序 16カット」「311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市いわき市 12カット」に記した。相馬市から浪江町、双葉町に至る国道6号線には40km、30km、20kmと二輪車通行禁止区間までの距離が電光掲示されている。こうした緊張が日常と並行しているのが福島第一原発40km圏だ。浪江町に入ると廃墟然とした施設が目につくようになり、請戸地区は国道沿いの繁華だった場所も住宅地も生活者の姿は見当たらない。除染と再整備が済み空間線量が元どおりであっても人が戻らないのは、学校、商店など暮らしに欠かせないものが機能を取り戻していないからであり、帰還希望者はいれど帰還に結びつかない原因になっている。2017年12月15日現在、浪江町に住民票を置く人の数18,054人で先月比21人の減少、居住人口は440人で先月比22人増加である。

浪江町には鉄道の駅はなく、自家用車で移動する前提の町であった。私は相馬市、南相馬市、浪江町、双葉町を自動車を運転して行き来したが、浪江町から南相馬市市街地は苦になる距離と道程ではなかった。地図上で計測すると10kmくらいだ。首都圏は別として地方都市で10kmほど自動車で日常的に移動するのは珍しくはないだろう。しかし老人や免許取得年齢に達していない若年者、体が不自由な人たちにとってはどうだろうか。病を患っている人だけでなく、いつ病気に罹るかわからないのだから身近に病院がないのも痛い。

国道6号線を南相馬市から浪江町に入る辺りになると、警察のパトロールカーが他の車両を先導するように何台も走っている。これは先導や伴走ではなく、無人かほぼ無人となった範囲を警らするためのもので、人がいなくなることは法の秩序が及ばなくなるリスクを高めるのだと思い知らされる。だが浪江町を警察がくまなくパトロールできる訳もなく、こうした日常の警らは国道上に限られている。浪江町を移動し撮影しながら、何も起こらないかもしれない、だが何か突発的に事態が急変しても助けがない可能性を巨漢の私ですら感じた。これは山中など人気のない場所で覚える危惧と別種の感覚で、無人の人家や施設があるだけに生じ倍増される感覚だった。こうした場所に一人ひとりと、もしくは家族ごとぽつりぽつりと帰還するのはやはり躊躇われるだろう。被災地取材の拠点として賃貸物件を借りようかとさえいっとき考えたが、こうした仕事場の類であっても困難が多そうで現実味が薄い。水道電気ガスといったインフラさえ整えば人々の暮らしが元どおり蘇るとは言えないのだ。ことさら浪江町を危険な場所と言いたい訳ではない。帰還の難しさについて、国や自治体でさえどうしようもない現実について言及しただけだ。百年単位の視点を持たなければならないだろう。

かつて人々の日常があった場所で行方不明者の捜索が行われ、県警災害対策課が「行方が分からない人と、彼らを待つ家族がいる限りは捜索を続け、発見に努める」と語った意味を、世間がどのように受け止めたか知る由もない。だが私の周辺を見回してみると、東日本大地震を振り返りたくないとする人が多い。復興のめでたい話題ならいいけどね、といった具合にだ。来年で震災から7年になる被災地の取材については、そのような写真は既に見ているし、新たな事実の発見なんてないだろうとする人も多い。こんなことは百も承知で私は「311への旅」を続けている。原発事故が起こり「騙されていた」と歌ったシンガーソングライターのような嘘つきになりたくないから撮影し続けるのだ。福島県に東電の原発が存在し首都圏へ送電され電力が消費されていた意味を知っていたはずなのに何も知らなかったふりをした彼のように、東日本大地震の被災地を見捨てたくないから撮影し続けるのだ。

 

 


311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 2017年10月 鹿島区八沢地区 慰霊碑 観音像
311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 2017年10月 一本松

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写真集HUMIDITY特装版

 

 

いったいいつだっけと出版日を奥付で確認するくらい記憶の片隅に移動していた写真集で、今思えばいろいろ至らなさばかりが積もり積もっているが大切な本だ。2013年の作なので4年、来年で5年になる写真集である。通常版はとうになく、特装版が在庫僅少になったので手にとって、この文を書いている。この段階で私は完全にデジタルに移行していたが、表紙に掲載した写真(中面にもある)など数多くフィルム作品が含まれる。このときわたしはタイトル通り空気中の湿度について興味があり、湿度を表現していて、現在の「Shape, Line, Texture, and Soul」とはだいぶ傾向が違う。現在だったら扱わない被写体をたくさん撮影している。

しかし表紙に選んだ写真は、表紙に選ぶくらい気に入っていたものでタッチを変えれば今撮影しているものと類似点が多い。

特装版はページにラッカー処理を施し退色や用紙の劣化を防いだものだ。この先何十年も現在の状態を保つだろう。ああ恥ずかしい、のである。しかし、やはり忸怩たるものがありつつもまとめておいてよかった。まったくいたらない作品であっても。

 

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311への旅 拾遺/関東大震災と油壺 2カット

(311への旅 福島県相馬市南相馬市いわき市 5カット)から続く。
※311への旅は「拾遺」をはさみ継続されます。

 

油壺はリアス式海岸線の入江でいくつもの岬や岬とも呼べないような凹凸によって外洋から段階的に仕切られ、壺に満たした油を覗くようなとろんと静かな波の少ない湾であることから命名された。穏やかな表情の海面に対して、あたり一帯の海岸は切り立った断崖と、堆積層が露出し侵食された荒々しい磯が点在している。堆積層はふたつの地層から形成され、白と黒の強烈なコントラストを描き侵食は海から陸へ直線状に激しく連なる。油壺のある三浦半島では関東大震災による津波は記録されていないが、海岸線周辺は1m隆起し景観は一変している。現在、海岸線で目にする侵食された白い岩の層と黒い岩の層はかつて海中にあったものだ。

人は現実の状況を目にしないかぎり、ものごとの本質を把握するのは難しい。1m隆起の意味もまた同様で、硬い岩石と化したひと連なりの堆積層を押し上げる力の異様さは、どのような図解や説明であってもここからは実感と程遠い絵空事しか理解できないだろう。抗えるはずがない力だ。日本列島が北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートの接点にある以上、沈み込みと反発、断層の更なる破壊による地震から逃れられず、人は列島に運命を預けて生きるほかないだろう。こんな過酷な列島に海を越えやってきてき嫌気がさしてどこかへ去った過去の住人もいただろうが、なぜか私の祖先は居残った。百年から数百年単位で訪れる地震の記憶は孫の代になれば忘れられたのかもしれないし、たとえ自然災害が多くても魅力的な土地だったのかもしれない。いずれにしろ日本列島に暮らし続け、自然へのまなざしばかりかこの世へのまなざしも抗えるはずがない力をやりすごすものになったのだろう。

私の代々の祖先もまた幾多の地震を経験し、海岸線や山肌の恐ろしいまでの変貌を目にしたはずだ。こうした天変地異で命を奪われた人もいただろうし、大切な人や大切なものを失った人もいただろう。こう考えるのが自然であり、他に考えようがない。冬の陽に照らされたうららかな油壺で、東日本大震災から6年以上過ぎて私は抗えるはずがない力について考えている。たぶん、祖先の誰かのように。

 

 

311への旅 拾遺/関東大震災と油壺

311への旅 拾遺/関東大震災と油壺

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Showがはじまる

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赤銅の花 2

Organic Flower

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赤銅の花 2

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EROS 4

Amaryllis アマリリス

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アマリリス Amaryllis

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311への旅 福島県相馬市南相馬市いわき市 5カット

(311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市いわき市 12カット)から続く。

 

旅は日常とは何かを教えてくれる。エアコンの効いた部屋からいきなり外に出て暑さ寒さの差に驚くのは、室内の環境に慣れきって室内の温度を客観的に把握できなくなっているからだ。福島県への旅は、首都圏感覚に慣れきった私の感覚を校正するきっかけになった。しかし、福島県の人にとっては私が訪ねた場所にあるものが日常である。日常は世界を満遍なく普遍的に包み込んだものでなく、土地ごと、個人ごとに内在している。私の日常は、あなたの日常ではない。

東日本大震災は日本人の感覚をきっと大きく変えたはずだ。震災以前、以後に時代を区切ることさえ可能なように思われる。だが、以前の日常がそれぞれ違ったように、以後の日常もまた一人ひとり違うはずだ。したがって主語を大きくとった話はナンセンスなのだが、震災が日本人を大きく分断したのは間違いない。何が、どこで分断されたか、いくつもの分断がありそうで一言では言えないけれど。

私は震災以前から首都圏で使用される電力が双葉町にある東京電力の原子力発電所でつくられているのを知っていた。原子力発電所が首都圏ではなく、福島県に設置されている理由も知っていた。「311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市いわき市 12カット」で除染員について触れたが、原発労働者と呼ばれる人々の働きがあって発電所は運転を続けられ、私はふんだんに電力を使えるのを知っていた。このように震災以前にも分断は存在したが、地下の活断層のように日常からは隠蔽していた。「隠蔽されていた」ではなく、私が「隠蔽していた」のだ。私に限らず程度の差こそあれ、首都圏で暮らしている者、暮らしていた者は似たり寄ったりだったはずだ。ところが震災の津波によって原発が制御不能になったとき、のちに反原発、反政府を叫ぶ人々や風評被害を生じさせたり風評に乗った人々は、「隠蔽されていた」と口にするようになった。これが幾多の分断のうちの、震災以前の分断と震災以後の分断の一例だ。そして、これらには福島県の当事者の視点がきれいさっぱり抜け落ちている。

原発が制御不能になると、ある歌手が「隠蔽されていた」とばかり騙されていたと歌にして拍手喝采を浴びた。震災以前に使用していた電力がどういったものか彼が知らなかったとしたら、これは相当の知恵遅れとしか言いようがない。しかし彼は知恵遅れではなさそうなので、自分自身を正当化するため「隠蔽していた」を「隠蔽されていた」とすり替えたのは間違いない。だから私は、あの歌手もあの歌もヘドが出るほど嫌いになった。この人が歌をつくって歌った頃から、反原発、反政府と拳を振り上げる人々が続々と登場し、街に出て太鼓を叩いたり笛を吹きながら行進していたけれど、やはり自らが「隠蔽していた」のをまるで忘れたかのような素振りだった。ハーメルンの笛吹きのあとを夢遊病者のようについて歩く行列には、芸術家、作家、知識人、政治家、有名人が混ざっていた。彼ら彼女らは自らが人々を先導していると誤解していたようだが、あれは笛吹きのあとをぞろぞろ行列していたに他ならない。いずれも、とても勝手な嘘つきばかりである。

こうした嘘つきが跋扈する首都圏の欺瞞に、私はずっと苛立ち怒り続けていたようだ。むしろ私があなた方に騙されていたと、この人に言いたかった。これもまた、私の日常である。そして、311への旅に出なければならない理由だった。

2017年10月27日の福島県相馬市の夕空と、28日の早朝の空はこの世のものとは思えない美しさだった。特に28日の早朝の空はいわし雲と積層雲が入り混じり夜明けの太陽が直進度の高い光を地上に向け輝かせていた。空気はとても澄み渡っていたが、同時に微量の美しい湿度感があった。写真家なら、興奮せざるを得ない光だった。そして思ったのは、これは比較的高緯度にある地域の光で、私の記憶の中に理想として眠っていた光だということだ。私は北海道の北見で産まれ、公務員であった父の転勤に従い宮城県、東京都、新潟県で幼年時代をゆっくり過ごした。私の基本形は東北と関越で形づくられているのだ。これらの土地の光を見て、これらの土地の水を飲み、これらの土地の米と味噌醤油を食べて、この体はつくられたのだ。と思ったとき、浪江町をいかに撮影すべきか悩んでいた私の前に答えが現れた。撮りたいように、いつものように撮ればよいのだ。誕生して間も無く見たはずの自然の光を追えばよいのだ。
[下へ続く]

311への旅 福島県 相馬市

311への旅 福島県 相馬市

311への旅 福島県 南相馬市

体に生じる反応は、脳が考えるものごとを一変させる。首都圏の欺瞞への苛立ちはなくならなかったものの、確実に何かが変わっていた。これで震災の被災者に同化したなど思い上がるつもりは毛頭ないが、すくなくとも私が欲していた土地に立っている実感は確かなものになった。もっと早く来ればよかった。でも、いまこのとき福島県を訪ねたのも時と事情の巡り合わせの必然であり、他の年、他の月、他の日に無理をしたのでは得られるものはすくなかっただろう。これもまた日常であり、非日常でもある。現場に立つ意味は大きい。通信が飛躍的に発達して地球の裏側へも一瞬のうちに確実にアクセスできるようになったが、恩恵はべらぼうだけれど何ら以前と変わらぬままの事象は多い。私が実現できたからといって、福島県に来ることもなく反原発、反政府、ひどいデマの流布をしている人を実体験の差のみで馬鹿にする気はない。とはいえ、福島県の空と光も見ず、人と話もせず、水も飲まずに「東日本大震災」「津波」「原発事故」といったキーワードだけを頼りに反原発、反政府といった大言壮言を弄ぶのはやめるべきだと言いたい。ハーメルンの笛吹きの存在を認め、自らの足元にある日常に帰り、この日常を校正すべきと言いたい。惨めな日常を直視しろ。

いわき市の光は福島県北部とはまるで違った。台風一過のぎらつく太陽と強風は撮影に向かないものだったが、これもまたいわき市四倉の浜の日常であり現実だ。現場で経験しなければならないものごとだ。私はありがたくシャッターを切り続けた。浪江町、南相馬市、相馬市でいつも携帯していた数珠を、この日も持ち歩いた。そして、前日までと同じように数珠を手にして南無阿弥陀仏を唱えた。

311への旅 福島県いわき市 四倉

311への旅 福島県いわき市 四倉

 

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311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市いわき市 12カット

(311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 序 16カット)から続く。

相馬といえば野馬追神事だ。

野馬追には500頭の馬がかり出されるが、これほどまでの頭数の馬がどこからやってくるか私は知らなかった。相馬の人であるXさんと話した折り、相馬ではごくごく普通の生業の土地っ子が馬を飼っていると教えてくれた。あとは各地から借りてくるという。Xさんは自らの去勢していない雄馬を駆って野馬追に出る。去勢された雄馬は競り合いになって鼻面が並ぶともういいやと引いてしまうが、未去勢の馬は相手を引き離すまで力を振り絞るのだという。気性は荒い。調教も難しい。しかし玉がついているなりに育て、教え、関係を築けばなんということはない。玉を取りたくなかったし、玉がついている馬が好きだとXさんは言った。他人の馬は性格が把握できないので何をどうしでかすかわからず怖い。馬は群れの動物なので近くにいる他の馬が興奮状態になると動揺が伝染する。おびえたり、驚いたり、暴れたりが連鎖するのだ。この状態をXさんはキチガイになると表現した。日頃は冷静であったりのんびり屋の馬でもキチガイになると手が付けられない。玉がついている馬は、こんなときも我関せずと唯我独尊の傾向があるという。馬の話になると目がらんらんと輝きつつも優しくなるXさんの未去勢の雄馬好きは、野生の馬に通じる生き物への愛に満ち、相馬の人の気風を表しているように私には見えた。

野馬追は、古来野生の馬を敵軍に見立てての軍事演習だった。徳川家康が戦乱の時代を平定すると、軍事演習でもある野馬追は幕府から禁じられた。藩主の相馬氏は野馬追は神事であると強硬に主張し、幕府から再開を勝ち取ったのである。
[下へ続く]
311への旅 福島県 相馬市 市街地311への旅 福島県 相馬市 市街地311への旅 福島県 相馬市 市街地
余所者の私がちょっと垣間みただけで相馬の人はなどと言えるものではないが、野生の馬と付き合える独特の精神性を感じずにはいられない。間合いの取り方が、私が知っている他の北国の人々とかなり違う。武者姿のXさんが野馬追で自らの馬を駆っている写真を何枚も見せてもらったが、愛馬の眼のりりしさと智慧の光に驚かずにいられなかった。こうした勇猛かつ知的な存在と付き合うには、人間の側にも誇りがなければ釣り合わず、かといって威張りくさっていては信頼関係は築けない。互いに、似ているのではないか。Xさんの小学生の息子は、この去勢されていない馬にまたがろうとしては振り落とされ、それでもめげず乗りこなそうとしているそうだ。

相馬の人々と話をしていると必ず、除染作業と復興事業がふとしたきっかけで話題にのぼる。震災後、各地から来る両作業員の宿泊需要が増加の一途をたどり、ビジネスホテルが続々と建てられた。私が宿を決めようとしたときホテルがいくつもあるにも関わらず日程ぶんだけの予約を取れなかったのも、こうした事情が背景にあった。幸いにも予約できたホテルはバスとトイレが別の新しい清潔な部屋だったが、どうにもこうにも人を泊めなくてはならず需要に押されて新造された宿のなかには壁がかなり薄いところもあるらしく、「壁が薄いホテルでは」という冗談が相馬では広く語られている。壁が薄いホテルでは早朝3時に猛烈な雄叫びが響くというのだ。朝早くから着替えをし朝食を食べ現場に遅刻せず勢揃いしなければならない。なので、リーダーが午前3時に「起きろ」と叫ぶ。壁が薄いので、雄叫びは全室に轟きわたりどんな寝坊助も飛び起きる。

この冗談は面白いだけの話とは思えなかった。

除染作業をしなければならないのは、相馬の人がどうしようもなかった原発事故が原因である。不条理としか言いようのない災難が舞い降りてきて、この重さは個人が支えきれるものではなかった。国や自治体や東電に、実害や風評被害の怒りをぶつけてもどうしようもない。どうしようもなくないかもしれないが、怒りをぶちまけても一件落着するはずがない。かといって泣き言や恨みつらみを言いつのり、施しを受けたり、ゆすり取ったりするのはとうてい人としての誇りが許さない。どうしたらよいのか答えがない状況にある。

ここに他県から除染作業員が次から次と訪れ、入れ替わり立ち替わりしている。除染作業は危険と隣り合わせで被爆線量を管理される重労働であり、それでも大量の人手が必要なため高待遇(平均週4日勤務、有給休暇制度あり、部屋代支給、労災保険はもちろん健康保険あり)で高給が支払われる。すべての除染作業員ではないが、一発逆転、一攫千金を目指して群がる人もいる。普通の人がいる一方で、普通ではない人がいる。真偽不明だが、様々な怪しい話が付きまとう。警察がどうした、などという話もある。除染バブルなる言葉が存在する。除染作業員を巡る金の循環あるいは滞留の仕方もまた、未だかつて相馬周辺の大半の人々が未経験なものだった。地元の人から、除染を巡る現実はとかく厳しい目で見られることになる。だが相馬の人には生業があり、皆が皆生業を放り出して除染作業はできない。作業員がいないことにはにっちもさっちもいかない。だから辛辣さを秘めた冗談を言いたくなる人もいるのだ。

福島の人が狭量なのではない。あらゆる方向から矛盾が押し寄せ、複雑な心境にならないほうがどうかしている。繰り返すが、矛盾を呼び寄せたのは地元の人々ではない。

相馬は福島県浜通りの北部に位置する。福島県は山地によって南北に三筋に分けられ、海側から浜通り、中通り、会津と並ぶ。浜通りは、夏は涼しく冬は雪があまり降らない。絶好の気候ではあるが、稲作に夏の低温は致命的で過去には飢饉に見舞われたこともある。危機に瀕した相馬中村藩は二宮尊徳を招聘し指導を仰いだ。中村藩では二宮尊徳の財政改革と農村改革のプランを「御仕法」と呼び、現在も地元の人に広く強く影響が行き渡っている。しかし、現代に二宮尊徳は存在せず、尊徳がいたとしても困難な状況をきれいに片付けられるとは限らない。時間はかかるかもしれないが、不条理と矛盾をひとつひとつ解決しなければならないことを浜通りの人は知っている。それでなくても人生は思い通りにならないやっかいものなのに。

2017年10月27日から28日は、台風22号が種子島を舐めるように通過し日本列島の太平洋岸を北上していた。ロケ1日目は目まぐるしく天候が変化するなか早朝から浪江町に入り、翌日以降の悪天候が懸念されたため大急ぎで2日目以降に予定していた撮影地点も消化した。相馬港周辺に到着したとき、海は大荒れになっているだけでなく、道路に浮いた砂は盛大に濡れて泥状になって、防潮堤の工事現場を通過する際は未舗装路に車がスタックするのではないか気が気でない状態になっていた。このため宮城県との県境近くを目指すのを諦め、Uターンして相馬港寄りの防潮堤のない海岸で撮影を行った。予想されていた通り日曜日は大雨と強風に見舞われた。しかし台風22号で行動を制限されたことが、このあと結果として万事塞翁が馬になる。X氏ほか相馬市の人々と会話をしたり、ごく短時間すれ違ったりできたのは台風のおかげだ。この日、相馬の人の問いかけがなかったら、私は不十分な旅で満足して家路につき、のちほどひどく後悔するはめになっていたかもしれない。
[下へ続く]
311への旅 福島県 相馬市 相馬港近く311への旅 福島県 相馬市 相馬港近く

「いわきは行きましたか」
台風のさなか、ある相馬の人に問われた。いわき市が地震と津波で大きな被害を受けたのは知っていたが、まず浪江町、南相馬市、相馬市と訪ねるべきだろうと考え今回の予定に含めていなかった。だが、そうも言っていられなくなった。ここにもまた、私の無理解があったのだ。いわき市の北端は、今回の旅で巡った場所と同じく福島原発30km圏内である。30km圏の同心円は双葉町が含まれる双葉広域行政圏からいわき市にわずかにはみ出すように通過している。この事実を、いわき市は30km圏内からはずれた場所と解釈していた。解釈の背景にあったのは当時の風向きだ。風は内陸へ向かっていて、いわき市は放射能を含んだ大気が通過していないと高をくくっていた。しかし、相馬の人はいわきの名を挙げた。同心円の内外であるとか風向きで不安がなくなる訳がない。浪江町、南相馬市、相馬市と巡るなら、いわき市北部にも行かなければ今回の旅程は完結しないのだった。

いままでの知識のままでは、いわき市を訪ねられない。慌てて相馬図書館に駆け込み、ホテルのWi-Fiを使って検索もかけた。やはりいわき市北部の人々は30km圏内の内か外か問わず、風向きとも無関係に、地震と津波の被害だけでも精一杯なところに原発事故の不安が心にのしかかっていたのだ。私が国道6号の40km、30km、20km先は二輪車の通行禁止と刻々と表示される電光掲示板に強い違和感を覚えたように、浪江町に入るとき広報訓練の緊急速報に戦慄したようにだ。こうまでしていても、私は何もわかっていなかったのだ。

いわき市は浜通り北部とまったく違う文化圏だ。インターチェンジを下りたときの空気感と大気を通過する光が一変した。いわき市の人は関東を向いて生活している。テレビ、ラジオは関東キー局、地方局の電波が届く。したがって、子供の頃から家庭のテレビは関東圏の番組が映し出されているのが当たり前の人も多い。電波だけでなく、道路や鉄道もまた水戸と直結しているので人の行き来や商売の範囲は、福島県北部より首都圏寄りだ。でも、首都圏、関東圏と同じではない。たとえば千葉県の外房とは雰囲気からしてまったく違うのだった。

私はいわき市の四倉を目指した。四倉海水浴場は常磐ハワイアンセンターで有名ないわき市北部にある遠大な浜だ。四倉近辺は前述のように津波によって大きな被害を受けた。去年、鹿島灘を取材して砂丘が津波のエネルギーを奪うブレーキとして働くのを知った。四倉を襲った津波は海沿いの市街地へ漁船を押しやるほど大規模なものだっだか、浪江町の漁港近くのように建物という建物が破壊される規模ではなかった。震源からの距離、海底の地形、海岸線が広がる方角等の条件を加味して考えなくてはならないとしても、四倉周辺は長く広い砂浜が味方したようにみえる。しかし、死者22名、関連死13名と記録されている。周囲は押し波によって水没し、引き波によって壊され奪われたのだ。

ここでも防潮堤の整備が進められ、ほぼ完成していた。四倉海水浴場駐車場から防潮堤は立ち上がっている。私が見てきた福島県の他の防潮堤と違い、法面は海側、陸側ともに松の苗が植えられていた。松は防風林として機能するだけでなく、観光地らしい外観を整えるのに役立つだろう。もしかしたら防潮堤の切れ目を見られるかもしれないと歩いてみたが、足が棒になるだけで終点にたどり着けなかった。

防潮堤の工事が完成していないため浜へ出るための通路は限られている。現在はたぶん1箇所だ。しかし、立ち入りは禁じられているがいくつも通路がつくられているので完成後はどこからも出入りできるようになるのだろう。こういった点も実用に重きを置いた福島県の他の防潮堤と構造が異なる。浜は奥行きが深く、いわき市を代表する海水浴場となったのが納得できる。津波の引き波は更に沖へ海と陸の境界を押しやり、あたかも砂浜が更に広がるように海底が顔を出したという話を聞いた。震災の日の津波到来後に海底が露出する光景を見られる環境にあったか不確かなため紹介だけにとどめておくが、他の地域では動画で撮影されているためあり得ない話ではない。

一見するだけなら四倉海水浴場は冬の海水浴場でしかない。周辺の街並みにも、津波被害を連想されるものはほとんどない。しかし防潮堤が誕生直前であるように真新しい家が多く、これらが大手住宅メーカー系か類するものであることを含めて震災直後に建て替えられたものだろうと気付く。こうした景観に浪江町の現在の姿をどうしても重ねて見ざるを得ない。もし原発事故がなければ、避難指示区域に指定されなかったら、浪江町の漁港周辺はこのようになっていたのだろう。生活と生業は土地を媒介して固く結びついている。過去の記憶と将来への展望もまた土地を媒介して固く結びついている。土地を失うのは、生活、生業、記憶、展望をばらばらにされ、失うことを意味している。どうして浪江町住民の帰還意向が「すぐに・いずれ戻りたいと考えている」が17.5%、「まだ判断がつかない」が28.2%、「戻らないと決めている」が52.6%(平成28年9月調査)となるのか、理由は思い浮かぶが更に考えなければならないものがあるだろう。
[下へ続く]
311への旅 福島県 浪江町311への旅 福島県 浪江町311への旅 福島県 浪江町四倉周辺の人々もまた以前通りの生活に戻った訳ではない。破壊された家を解体撤去し、将来を考えたつくりで新築するとして、2011年3月11日以前は予定すらしていなかった資金を調達しなければならない。火災保険は津波被害は保証の範囲外だ。地震保険に加入していれば津波被害は保証されるが、支払われるのは全損で建物時価の50〜70%といったところだろう。現実は居住不能だが半壊とされる場合は少なくない。築年数が古くなれば時価算定はかぎりなく低くなる。被災した人たちは、原発30km圏内か圏外ではあるが直近であることの不安を抱えつつ、自宅を再建するか否かの決断を迫られていたのだ。家だけではない、仕事や学業、乳幼児や老いた家族などとの生活をこれからどのように立て直したらよいか考えなくてはならなかった。

「311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 序 16カット」に国道6号線のあちこちに40km、30km、20kmと双葉町の福島原発までの距離と自動二輪車通行禁止である旨が電光掲示板で表示されている話を書いた。そして20km圏内に入ると、そここに放射線量を逐次表示する線量計が設置されている。どのような人でも普段の生活の中で「駅から何キロ」などと同心円を思い浮かべることはあるが、あくまでも概念でしかない。今回の旅で私は、概念ではなく目で見え確認できるかたちで、あるいは生活そのものとして原発を中心にした同心円を常に意識しせざるを得なかった。空間線量が可視化されるのも、以前なら研究者の研究活動の世界にしかなかったものだ。土地とともに生きてきた人々には、たまに思い出される概念にすぎなかったものが日常の中で意識され続けているのだ。こうした福島県の生活者を、遠く離れた土地の者が「東日本大震災」「津波」「原発事故」とキーワードに頼った概念だけで語っている。そして概念だけを振り回して、政治の道具、いやがらせの道具、商売の道具にしている馬鹿者もいる。震災から6年半が過ぎても何ら変わることも続けている。中央のマスコミにもまた同様の人が多いのは嘆かわしいばかりである。
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Fumihiro Kato.  © 2017 –

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311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 序 16カット

311への旅 福島県(相馬市、南相馬市、浪江町)準備から続く。

 

はるか遠くにあったものごとが、いま目の前に広がっている。

国道6号のひときわ大きな電光掲示板に40km先は二輪車の通行が禁じられていると表示されている。車を進めると、30km、20kmと禁止区間までの表示距離が縮まる。双葉町までの距離だ。双葉町への立ち入り許可申請が間に合わなかった私は、双葉町と接する浪江町に向かうため相馬市から国道6号を南下していた。福島第一原発事故以来、国道6号の著しく汚染された区間が通行止めになっていたが、放射線量が低くなったとして今年(2017年)9月15日から全線通行可能になった。しかし、歩行者、自転車、自動二輪車は自動車のように車体で覆われていないため被爆が懸念されるとして、これまでの封鎖区間の通行が許されていない。

福島第一原発から放出された放射能は、大気の流れに沿って双葉町全域と浪江町の内陸側を飲み込み更に西へ及んだ。浪江町の沿岸部は一部を除いて気流の通過を免れたが、原発から最短で4kmの距離にあるため住民はすべて避難し立ち入りもまた制限されていた。浪江漁港周辺を含むほぼ常磐線以東が避難指示区域に指定されたのだ。原発事故以前の問題として、漁港の周辺は津波に襲われ壊滅的被害を受けているため避難するほかなかっただろう。常磐線から西へ常磐自動車道あたりまでが旧居住制限区域、常磐自動車道から西は帰宅困難区域である。旧避難指示解除準備区域、旧居住制限区域と「旧」がつくのは、今年3月31日をもって避難指示が解除されたからだ。

旧避難指示解除準備区域は津波被害の復興事業が進められ基本的なインフラは復旧したが、10月末現在生活をしている人はいない。また帰還困難区域を通行しての立入り時間は午前6時から午後7時までに制限されている。避難指示解除前に実施した住民の帰還意向調査では、「すぐに・いずれ戻りたいと考えている」が17.5%、「まだ判断がつかない」が28.2%、「戻らないと決めている」が52.6%(平成28年9月調査)だった。

車が浪江町に入る直前、スマートフォンがけたたましくチャイムを鳴らした。聞き覚えのないメロディーに驚き、私は車を路肩に停めた。

「緊急速報」
「浪江町です。原子力発電所の事故により、浪江町に広域避難の指示が出ました。安定ヨウ素剤は、浪江町地域スポーツセンターで受け取ってください。自家用車等での避難が難しい方は、浪江町地域スポーツセンターに集合してください。スクリーニング場は川俣町体育館です。避難先は二本松市です。今後のお知らせ、テレビ・ラジオの情報に注意してください。」

まさか、と思った。よりによって私が、と戦慄した。信じられず、信じたくなく、速報を文頭から読み直した。[【広報訓練・浪江町】訓練です。]とあった。文末には、[以上、訓練です。(浪江町)]と発信者の署名。動転のあまりこれらを見落としていたのだ。

浪江町の沿岸部は放射線量は低い。だから、避難指示が解除されたのだ。国道6号の二輪車通行禁止区間であっても、短期的には何ら健康被害はない線量であり、長期間生活するとき懸念があるだけなのを知っていた。航空機に乗れば宇宙線由来の放射線を地上以上に浴びる。自然由来の放射線量が多い場所が地球上にはいくつも存在し、さらにいくつかは都市である。レントゲン撮影はもちろん、CTスキャンでも放射線を浴びる。5月から7月にかけて私は、救急搬送、手術と繰り返しレントゲンやCTスキャンで肉体深部を撮影されたがなんら健康被害を受けていない。重大な問題があれば避難すべきだが、初老の域に入った肉体への影響は少なく、仮に影響を受けても先が長い訳ではないから覚悟するほどではないと考えていた。これでも、チャイムの音と「緊急速報」の四文字に私は動転したのだ。

311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 緊急速報 浪江町

開口部を板囲いした店舗や明らかに廃墟とわかる建物。これらによって浪江町に入ったのを知らされた。コンビニエンスストア、ボーリング場、宴会場、ガソリンスタンド、ホームセンターは外観に特徴があったり看板が残っているものもあり、震災前と後の落差の大きさをまざまざと示している。いきなり大地震が大地を揺るがし、いきなり津波が到来し、いきなり原発が制御不能になって、人はいきなり人生を台無しにされたのだ。すべてがいきなり、震災後に突入したのだ。この不条理の極致を、290km隔てて私はテレビで新聞でインターネットで見ていた。津波や原発事故の映像を見ながら、とんでもない状況に陥ったと唖然としつつ、どこか現実感のない奇妙な感覚に陥っていた。やけに生々しい悪い夢のようでもあった。時間だけを共有している並行世界のあちらが側の出来事のような感じもした。心配や悲しさや諦めは確かにあったが、感情の足元は地に足がついていなかった。こうした感覚はやがて理性では修正されたが、心理は依然として距離を隔てた遠さを抱えたままだったのだ。

津波で破壊され尽くされた浪江町の沿岸部は、セイタカアワダチソウが目立つ雑草の原に見えたが、かつて漁港の町だった地区に入るとやや印象が変わる。道路は舗装が直され真新しい電柱には電線が張り渡されていて、開発間もない更地のニュータウンのようだ。しかし、数少ないが未だ残る全壊半壊の家屋は自然災害の惨たらしさを白日の下に晒している。舗装が行き届いているのは表通りだった道だけで、裏道、小路は雑草に浸食され家々の敷地境界も判然としない。真新しい舗装路は防潮堤工事のための車両の通路になっていて、ダンプカーやコンクリートミキサー車が行き交っている。類を見ない高さでいかにも頑強そうな防潮堤は、禍々しい災害を呼びこんだ海を完全に遮蔽しようとしているのだ。したがって新造された漁港に行かなければ海原はいっさい見えない。

防潮堤は浪江町だけを守ろうとしているのではない。封鎖されている双葉町との境界を超え、ずっと南へ続いているのだった。浪江町を後にして海岸線沿いを北上すると、こちら側でも防潮堤の工事が続けられていた。ほんのわずか砂浜が見えたかと思うと、また防潮堤が視界を遮る。これを羹に懲りてなますを吹くと笑う気持ちになどなれるはずがない。いきなり人生を破壊された人々は、2011年3月11日時点に大規模な防潮堤があったならと思っているだろう。津波は波ではない。海が高さを増し陸を飲み込むのだから巨大で頑強な壁が必要なのだ。地上は水深10数メートルの海底になったのだ。仮に10年以内に津波が発生しなかったとしても、次の10年、100年先に未曾有の津波がこないと誰も断言できないのだから、今つくらなければならないのだ。異質で周囲と調和しているとはお世辞にも言えない防潮堤だが、やがて目がなじみ頼もしさの象徴になるだろう。これから生まれてくる人たちにとっては、これがふるさとの日常の風景になるのだ。

福島県のほとんどの地域は、311を知らなければ震災の一次被害、二次被害を被ったとは連想されないあたりまえの日常がある美しい土地だ。しかし震災を知っている者にとってはいたるところに傷跡やかさぶたが見つかり、この世の不条理をいろいろ考えずにいられない。ぽつんと取り残された更地、やけに真新しい建築、壊れたままのもの。私を通り過ぎて行く福島の人々はやさしく、土地の言葉は耳に心地よいが、きっとこの人たちもまだ心にかさぶたが残されているのではないか。そして人は何もかもそれぞれで、それぞれの震災後を生きている。これらは甘い辛いを取り混ぜた現実で、この現実に私は旅をもって触れているのだ。遠さを克服しつつあってほしい。

写真を撮影し、撮影データをチェックしていとき、幾カットかを意思を強く持って消し去った。写真家にとって、仮にピンボケだろうと手振れしてようと撮影したカットはすべて命の時間と同じ価値を持つものだから、写真としてちゃんと成立しているカットを抹消したのは自殺行為に等しい。だが、破壊された家屋が大きく写り込んでいるカットや主題中の主題になっているものは、持ち主の悲しみや絶望を増幅させ、撮影地点を故郷にしている人の気持ちも弄ぶ可能を感じたのだった。しかし、事実を率直に記録する意義もあるかもしれないと、強固なはずだった意思がぐらぐら揺さぶられるのも事実だった。

したがって今回の写真は、平時に他人の家の中を無許可で撮影しないのと同様に家屋は外観だけ撮影している。また、連作「海景」と同じ気持ちで撮影し、画像化している。無意味の美しさだけ抽出したつもりだ。したがってなんらかの事情、意図などを説明するための写真ではない。折々、時事刻々に変化する私の視線に基づいた写真なのだ。

このように思いながら、旅は続く。

 

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311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 浪江町コンビニ

311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 浪江町 ナミエボウル ボウリング場

311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 浪江町 2017年10月

311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 浪江町 2017年10月

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311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 2017年10月 一本松

311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 2017年10月 一本松

311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 2017年10月 一本松

311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 2017年10月 一本松

311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 2017年10月 鹿島区八沢地区 慰霊碑 観音像

311への旅 福島県浪江町相馬市南相馬市 2017年10月 鹿島区八沢地区

 

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311への旅 鹿島灘 3カット

(311への旅 千葉県飯岡 2カット)から続く。

この旅を思い立ったのは東日本大地震発生から一、二週間ほど経った日の夜だった。新聞やテレビは連日福島原発の事故と、関東一帯で計測された放射線の値について落ち着きなく報道していた。この狂騒とも言える状態は、半年以上経過した2011年10月14日に世田谷区の住宅から最大毎時3.35シーベルトの放射線量が検出された話が大騒ぎになったことから分かるように、より震災の日に近い時点ではさらにけたたましく不穏な話題が飛び交っていたのだ。世田谷の一件は民家の床下にあった瓶詰めの古いラジウムが発していた放射線と判明したが、皆が「シーベルト」という単位にびくびくしていたのである。斯く言う私が住む地域近くでも高い放射線量が計測され、これは中華人民共和国が1950から60年代にかけて頻繁に実施し、その後も1990年代まで行われた核実験由来の放射性物質が原因であろうと判明した。こうした羹に懲りて膾を吹くを地でいく狂騒の中、福島へ行かなくてはと考えたのだ。実行に移すのが大幅に遅れた理由は前章までに記したのでここでは割愛するが、それにしても当時の私は闇雲すぎた。「この眼で見て何かしなければ」と言えば聞こえはよいが、野次馬と蔑まれても仕方ない無計画さだった。

その後、私は「海景」と名付けたシリーズの写真を撮影しながら、関東から中部地方の海岸を歩き、気持ちを整理しつつ自らの写真で何が可能か自問自答した。2017年3月31日、私は茨城県神栖市南浜の海と風力発電所を撮影した。浜を守る巨大な波消しブロックのはざまに、あきらかに供えられたものとわかる小菊の花束があった。この地で津波によって亡くなられた方はいらっしゃらないようなので、震災とは別の事故で命を落とされた人の魂を慰めるための花束だったのだろう。だが、鉛色の空の下、荒れる海の傍にあった小菊の花束は強烈な印象となって私の眼を釘付けにした。人の命。もうこの世にはない魂。その命と魂を、残酷で殺風景で無機的な風景から守ろう、慰めようとする人の心が小菊となって自然と対峙していたのだ。思想を用意して「旅」をしても詮ないことを、小菊を前にして私はやっと悟った。野次馬であるだけでなく、私は力みかえっていたようだ。

茨城県もまた東日本大地震による津波の被害を受けた。被害を受けたのだから良いことなど一つもないが、不幸中の幸いは前述のように津波で亡くなれた方がいなかった点である。より西に位置する千葉県の飯岡で人命を奪った津波が、鹿島灘では主としてい浸水や物的被害を与えるに止まったのは海上から浜にかけての地形、砂浜の影響だったようだ。飯岡では海中の地形が災いして津波が増幅されている。九十九里浜一帯で被害が限られたものであったように、砂浜が津波のエネルギーに歯止めをかけたのだ。これを教訓として、茨城県は砂浜を守るだけでなくかさ上げする公共事業を行なっている。

しかし、何も起こらなかった訳ではない。銚子半島を突っ切る利根川の東側に沿って通る国道124号線を超えて茨城県神栖市は浸水した。神栖市は砂州が発達したかのように平坦な起伏が少ない地形で、浜から利根川河岸まで海抜が大きく変わらない。このため堤防を超えたり河川に侵入した津波が、内陸へ奥深く侵攻した。当時の状況を調べると、砂浜から沿岸部は泥田のようになっている。124号線とほぼ平行して海側を通る117号線の鹿島灘側は、かつて砂丘の終端部だった。有史以来、人が開墾し砂を押しのけ、近年では海浜工業地帯が開発されている。こうした人の営みは砂丘との闘いであったが、砂丘は同時に津波から人と文化を守ってきたのだ。自然との調和や共存と言うは容易いが、あまりに事情は複雑である。

鹿島灘一帯の風力発電と送電線もまた、自然との調和や共存の困難さを象徴している。風力発電の施設と送電線は、近づいた私をただただ圧倒した。自然をねじ伏せようとする巨人たちの群れのようだった。これらもまた私にとって、311への旅の一風景だ。感じるままに歩き、見て、撮った。これをもって何かを言いたい訳ではない。東日本大震災を経験した景観に祈るだけだ。

 

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311への旅 鹿島灘

 

311への旅 鹿島灘

 

311への旅 鹿島灘

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311への旅 千葉県飯岡 2カット

(311への旅 千葉県飯岡 19カット)から続く。

千葉県旭市飯岡に津波の爪痕がはっきり残るのは漁港近くの更地くらいのもので、こうしたところに旅をはじめるのが遅すぎたと思わされると同時に、人は生きるため過去を踏み台にして進まなければならず、痕跡が消えるくらいでなければならないとも感じさせられた。浜辺を見ても、何も知らなければ津波を連想させるものをない。自然にも刻一刻とあるべき姿に落ち着こうとする力学が働く。

もちろん、当事者である飯岡の方々は東日本大地震と津波を忘れられずにいる。まだ六年しか経過していないのだ。防災の側面からすれば、忘れるなであろうが、忘れてしまいたい記憶の断片ばかりのはずだ。ただ、大切な人を亡くされた方々にとっての記憶は、その人の思い出は2011年3月11日の出来事と密接に結びついたものゆえ単純ではない。小学生の子供たちが親になり、その次の世代が物心つく時代にならなければ飯岡の記憶は塗り変わらないだろう。こうした次の時代になってはじめて、慰霊碑の記述は記憶から歴史に変わる。慰霊碑は2013年に建立され、震災関係の資料とともに小中学生の作文を収めたカプセルが埋められている。

東日本大地震発生の日に何が起こり、その後どのように経過したか飯岡にまつわる記述は報道、個人の報告ともあまりに少ない。インターネットのSNSにおいてはほとんど発見できない現状だが、YouTubeにアップロードされている動画でありのまま津波被害の一旦を知ることができた。私が飯岡の地と、飯岡の津波被害を震災の日から半年間知らなかった言い訳ではないが、2011年3月11日から相当の期間の私の記憶はかなりあやふやで、自らが困惑したり奔走した記憶だけ突出し、あとわずかな事柄も時系列がめちゃくちゃになっている。これは私に限ったものでないだろう。皆、自分と身の回りに目を奪われていたのだ。このような私が今更のこのこ飯岡を訪ねる後ろめたさは、こうした態度に起因している。まして、よそ者なのだ。

撮影した全画像ファイルを点検し、現像作業に入ってもどのように画像化するか、画像化して私の写真とする意味は何か問い続けた。物見遊山ではないと何度も心中で口走り、承認欲求のため画像化するのでもないと自らを戒めたが、当事者の方々が同意してくれると限らないうえに、同意どころか馬鹿にするなと詰め寄られてもしかたないのだった。しかし、私は一人の日本人として、関東在住者として飯岡を訪ねなければならなかった。いま、このときの飯岡の姿を記憶に刻み、画像として心象をまとめなければならなかった。東日本大地震を巡る旅を、飯岡からはじめて後ろめたさの意味と、謝罪と祈りの意味をすこしでも明確にしなければならなかった。

原発事故に端を発するデマや悪意ある発言の被害を大きく受けなかった飯岡だが、東北のみならず関東一円についてひどいでまかせを毎日のようにSNSに書き連ねる者が未だに存在している。また震災直後の混乱期に扇情的な報道をし、その後も継続してデマに等しい記事を書き連ねた報道機関は訂正も謝罪もしていない。こうしたデマや悪意と無関係であるが、飯岡の展望台から四方を見回すと屏風ヶ浦の東に、銚子沖から鹿島方面の海上に、北側の高台に風力発電の風車が何機も並んでいるのが見え、震災後のエネルギー政策が風景を変えたのがわかる。東日本大地震とは東北に被害を与えたものとだけ思い込むことが誤りであるのが、こうして形となって示されている。東日本大地震は東北に限らず、私たちの心理と生活やインフラの在り方を変えた。良き転換点であったものもあるが、悪しき日常として継続しているものも多い。前述のデマ、悪意の日常化、あるいは顕在化は悪しき現象である。

飯岡の地に立ち、飯岡に暮らしている人の生活を見、飯岡の風景を撮影し、150km離れた場所で暮らす私は、飯岡で起こったことを被害を知った日以上に他人事とは思えなくなった。たまたま飯岡が被害を受けたに過ぎないのだ。たまたま飯岡以北の東北地方が甚大な被害を受けたに過ぎないのだ。この国に生きる者として、卑しい言葉を他人事のごとく口にできるはずがないのだ。いまだ呪詛のように悪意ある発言を続けたり、いつまでも誤りを訂正しない者どもの暮らしが、いったいどのようなものか私にはまったく想像できない。でも、これは間違いなく日本人の言動であり、日本人の一側面だ。世界中いたるところに似た話があるとしても、日本と日本人の現実なのである。いずれ東日本大地震は歴史となる。人間のひどい心のあり様も歴史とされる。私がしばらくの間、飯岡に対してまったく無関心だったことも汚れのひとつに集約され、歴史に残るだろう。

 

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311への旅 千葉県飯岡

 

311への旅 飯岡

 

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311への旅 千葉県飯岡 19カット

東日本大地震の被災地を関東在住者は「東北」と思い込んでいる節がある。かく言う私も地震から半年ほどの間、東北が被災した震災と認識していた。つまり、地盤の液状化を除けば政治と経済の混乱、人心の混乱、物資不足、計画停電といった二次的、三次的な被害のみを関東は被ったと思っていたのである。何気なく読んでいたネットニュースの記事で、千葉県旭市飯岡に津波が押し寄せ亡くなった方が多数存在していたことを知ったとき、幾度となく放映された東北の海岸を飲み込む津波の映像が次々脳裏によみがえったが、おそろしいことに確たる実感がまるで浮かばなかった。失礼を承知で率直に当時の心境を書くが、現実の出来事として何も想像できなかったのである。千葉県旭市飯岡という地名すら、初耳であった。

千葉県旭市飯岡は外房の九十九里浜の東端からさらに先にあり、犬吠埼から西へ屏風ヶ浦の終点あるいは始点に位置する漁港の町だ。総武本線の飯岡駅は内陸にあり旭市の市街地に近く、周辺では店舗の名称に飯岡店など付されるが、千葉の飯岡と単に呼ぶときは漁港の後背地を指すことが多い。銚子半島の南西海岸にある屏風ヶ浦は、高さ40から50mの海食崖が10kmあまり連なる景勝地でドーバー海峡のホワイトクリフになざらえ東洋のドーバーとも呼ばれている。屏風ヶ浦の飯岡層はいきなり終わり、漁港の標高は0からせいぜい数メートルだ。この屏風ヶ浦の端に灯台がある。標高50m近い場所柄、こぶりな灯台ではあるが十分に遠方へ光を送れるのだろう。灯台のそばに展望台があり、飯岡漁港、飯岡の町、九十九里、太平洋を一望できる。漁港と外海は東西二方向から突堤で仕切られている。より長く屈曲した東の突堤にはわずかだが砂浜がある。展望台から眺める漁港の海面は油を流したように静まりかえっているが、東の突堤には太平洋から次々波が押し寄せる。この東の突堤を越え、高さ7.6mの津波が飯岡を飲み込んだのだ。

東日本大地震発生の一時間後、津波の第一波が飯岡に到達した。このとき海岸に近い家は浸水し、避難した人もいた。だがさほど大きな津波ではなかったため、波が引いた直後から人々は自宅へ戻って行った。地震発生の二時間半後の17時26分、沖合で複数の津波が複合したうえに海底の地形も合間って海の膨らみが増幅され、高さ7.6mの第二波の津波が飯岡を襲った。チリ地震の津波を経験した人でさえ、第二波の到来と規模は想定できなかったという。自動車は流され、家は破壊され、人も海に飲まれた。漁港直近の土地は現在も更地のまま広がっている。

2017年10月1日。太平洋は寄せては返す波があるだけで、高台の展望台から見下ろす九十九里への海岸線は、更地のままの広々した空間を除けば平和そのものだった。しかし、津波発生時に展望台まで避難していた人が撮影した動画を見ると、東の突堤めがけ膨れ上がった海面が押し寄せていた。なぜ、ここに。そう思わざる得ないほど飯岡の漁港にだけ海が襲いかかっている。東の突堤は堪え切れるかに見えたのも束の間、膨張した海に飲み込まれ、このまま陸地が海原と一連なりになった。動画は言葉にならない切ない声で終わる。ファインダー越しに漁港と町を見下ろす私の眼に、太平洋の外海に飲み込まれる飯岡が重なった。動画の終わりの、あの声が聞こえたような気がした。高波が来たのではない。海が膨張し、飯岡を飲み込み、そして引くとき奪っていったのだ。

突堤はどの漁港にもある、ありふれたものだった。コンクリートの壁は人が歩ける幅があり、海側に波消しブロックが積まれている。砂浜が湾に向かって高さがあるのを考えると、突堤の上は漁港より標高が高いことになる。突堤のてっぺんで3mくらいの高さだろうか。浜と突堤はぎりぎりまで津波を堰きとめていた。だが高さ7.6mに膨張した海は突堤を乗り越え、突堤を海中の突起程度の障害物にしてしまった。高さは質量であり勢いでもあった。突堤に立ち、頭上はるかにある海面を思い浮べようとしたが無理だった。2011年3月11日17時26分に、もし私がこの突堤にいたら空はいきなり海になり、水深4m超の海中に没しつつ沈み流されたのだろう。人間は、砂浜に打ち上げられているペットボトルくらいの存在でしかない。

あの日のあの時海中に没した突堤に、なにごともなかったように釣り人がいて海に糸を垂れていた。自転車やスクーターで突堤の上を移動している人もいた。これが2017年10月1日の現実であるのはわかっている。わかってはいるが、眼前のすべてが虚構じみたものに見える錯覚に陥る。浜を歩いた。どしっりした砂質の浜で、思いの外歩きやすい。浜と波打ち際に分けて海岸風景を見るのが人の常だが、この砂が海の中へ水平線の先までずっと続いているように感じられ海と陸を分けて考えられなかった。これは恐ろしい感覚だった。陸を信じられないなら、何を信じたらよいというのか。

30年ほど前の10月、私ははじめて九十九里海岸に立った。金曜の深夜に東京大田区からレンタカーの白いサニーを駆ってマップルの地図を首っぴきで千葉の市街地に出て、一旦仮眠し、朝早くモデルの女性をピックアップして九十九里海岸へ向かった。九十九里は名前の通り遠大で、いったいどの浜で撮影したか手元にある過去のネガを検討してもわからない。撮影を終え女性を自宅に送り届けたとき、たしか午後六時過ぎであたりは真っ暗になっていたから、かなり東寄りの九十九里の浜だったのだけは確かだ。飯岡の近くだった可能性は高い。あの頃の私は写真に無我夢中だった。レンタカーを返し帰宅した私は、何本もの135フィルム、120フィルムを次々現像し、翌日の日曜は暗室でプリントを焼き続けた。これでもまったく疲れを感じなかった。当時と比べ、現在の私は様々に変わった。自分のSUVで飯岡を目指し、マップルではなく新型のナビゲーションシステムを頼りに走った。アトリエに戻ってデータを一気に吸い出し、現像の準備まで進めたが疲れを押して仕事をしてよいことはまったくないので急ぐのはやめた。あの日に若者だった私は、いま老人の域へ足を半歩踏み入れている。初夏に二度の入院と一度の手術を経験したが、医局長の先生を除けば担当医も看護師もみな私より若い人だった。

あの日、ずっと海と向き合って撮影していたが津波について一度たりとも思い巡らさなかった。バブル景気到来以前の時代で、写真の仕事をし、大学では社会学を勉強し、軽量鉄骨造の風呂なしアパートに帰ればなけなしの金で買ったアルバムに耳を凝らし、これが認識できる世界のすべてだった。これでは世界について何も知らないに等しい。そして、こうした時間が永続するものと信じて疑わなかった。いまの私は海景と銘打った連作写真を制作しているので度々海へ行くが、行くたび津波を連想せずにはいられない。こればかりでなく、東日本大地震は発生当時四十代だった私をがらりと変えた。震災以前に、写真の仕事、広告制作の仕事、文芸の仕事、雑誌の創刊と目まぐるしく様々なことをして、二十代当時より世界は広がりを見せているはずだったが、こんなものは屁でもないくらい震災と震災が引き金となって発生した混乱は私をまったく別の場所へ吹き飛ばした。ものごとの永続と平和を、確信や確証を、関係の安定を、まったく信じられなくなっていた。

地震の揺れ、停電によって情報を断たれたまま過ごした一夜。これらは今から思えばたいした出来事ではなかった。翌日テレビで目にした津波の映像、福島第一原発の事故のあらましと経過、原発事故にまつわるすべてのデマといかがわしい人々の跳梁跋扈に、私の内面は大きく変わらざるを得なかった。変化をきたした内面から見る世界は、とうぜん以前と別物であった。私にとって東日本大地震は人災の始まりだった。

恐怖が人の理性を狂わすのは当然だ。以前にも、恐怖で性格と態度が変わった人を目にしたこともあった。恐怖に乗じて他人をたぶらかす人を見たこともあった。いずれも恐怖が去れば、人は元どおりに近いところまで落ち着きを取り戻したし、悪意ある者は群衆にまぎれ姿を消した。ところが東日本大地震は、この世に沈殿していた汚泥ごと何もかもかき回し、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪、瞋恚、邪見は現在も日本を浮遊し続けている。嘘とでたらめ、無意味で無益なおしゃべり、中傷、他人の仲を裂く言葉、強欲、憎しみ、誤った見識が浮遊するだけでなく拡大再生産されているのだ。ことに原発事故は嘘つきと嘘によって金儲けをする畜生にとって格好の餌になった。原発事故こそ人生のつまづきの原因であると自分と他人を騙す人々は、自尊心のためデマを声高に騒ぎ立て続けている。それまで指をくわえ羨望の眼差しを向けていた相手、うらやみ卑屈にならざるを得なかった相手、小馬鹿にして小突き回したかったが他人の目が気になり陰口に留めていた相手を、偽りの正義の旗を立てて集団で攻撃しはじめた。こうすることで苦しむ人ばかりか自死を選択した人がいるというのに、自らの過ちを正すことはなかった。ここに人の性善なんてものはひとかけらもない。

そんな人物がいることすら知らなかった相手から、私も長らく嫌がらせを続けられ大切な仕事を邪魔された。私ごときをうらやんだところで何になるのか、と思うのだが食らいつくきっかけがあれば誰にだってこうすると犯人は自白している。放射能によって胎児は奇形化し、女性も男性も生殖能力が怪しくなり、人々は病に犯されつつあると特定の地域、特定の個人をSNS上で名指して誹謗していた男は、自らの失敗によって怪しくなった人生の現状と先行きを誤魔化すため原発事故を利用し、こうした輩に批判的だった私を陥れようとしたのだった。この男の嫌がらせが執拗であったため、東日本大地震を巡る仕事は延期せざるを得なかった。いつ、何を、男によって悪意ある引用や抜粋され被災地と故人と被災者を傷つけるかわからなかったからだ。だが、私はもう待てない。

飯岡から私の旅ははじまる。東日本大震災発生まで世界をあまりに知らず、能天気だった自分を恥じ、いつまでも何もできなかったことを謝罪し、祈るため旅に出る。社会問題を報道しようとしているのではない。ことさら悲劇を描こうというのでもない。明るい未来を示唆するためでもない。そこへ行き、呼吸し、見て、写真を撮影するだけで精一杯だが、こうするほかに謝罪し、祈る術がみつからないのだった。いったい誰に、どのように、何を謝罪し祈るのかすら漠然としている。この曖昧を整理するため、旅に出るのだ。

 

 

 

Fumihiro Kato.  © 2017 –

311への旅 東日本大地震 飯岡

 

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