311への旅 2018 福島 初夏 37カット

By Fumi-Hiro Kato "HIRO K"|2018-06-15|311への旅

(311への旅 浪江町立請戸小学校15時38分)から続く。

Fumihiro Kato.  © 2018 –

相馬野馬追の開催地である南相馬市小高区を訪ねた。小高区は福島第一原発事故により全域に避難指示が出され、現在帰還困難区域に指定された箇所一世帯を除いて、現在避難指示が解除されている。原発事故のみならず沿岸部は甚大な津波被害を受けたため、2016年に指示が解除されてはいるものの人の暮らしも経済も完全に復旧しているとは言い難い。避難指示の解除は、除染の終了を意味しているが、沿岸部の除染済みの耕作地は雑草が繁茂する広大な原野が目立つ。誰か人はいないかと思いながら撮影をしたが、運が悪かったのか、それとも人がまばらなためか話を聞くことができなかった。

気を取り直し、平安時代につくられた国指定史跡の大石仏群がある小高区の大悲山に向かった。国道6号線から見る内陸側はさほど標高が高くない山地で、大悲山もまたここに位置している。大石仏は山肌の凝灰質砂岩を彫刻したもので、誰がどのような意図でつくったのか言い伝えが残されていないためわからないが、像の大きさ、全体の規模ともに日本有数の石窟寺院だ。未曾有の災害で亡くなられた方の魂に手を合わせつつ、自分の日頃の行いを謝りたくて仏様に会いに行ったのだ。ただ、この仏様たちは三カ所のお堂に分かれていて、さらに事前情報が多くないこともあって紹介画像を見てもどこのお堂にどなたがいらっしゃるのかよくわからない。しかも直近の駐車場にある略図は、主に伝説「大悲山大蛇物語」にまつわるもので、石仏とお堂についてはほとんど示されていないに等しかった。

これは参ったと思ったが、白髪の老女がいたので石仏について尋ねてみた。彼女はお堂の位置を教えてくれ、こちらから問うまでもなく身の上話をはじめた。震災で家の屋根などに被害を受けただけでなく、すぐさま避難しろと言われ十分な身支度ができないままいわき市に逃げたのだという。茨城の東海村から姉が暮らすこの地に移住してきたので、なにかと勝手知ったる南の方角へ戻るかたちで逃げ、いわき市に落ち着いたのだ。これが2011年の3月である。除染が完了し避難指示が解除されたのは前述の通り2016年の春だ。家に戻ってみると、震災で壊れた屋根からの雨漏りで家は使い物にならなくなっていた。確かに言われてみれば、小高区に限らず避難指示が出された範囲は原発事故以前に震源地の近くなのだから、彼女同様に指示か解除されたからといって家屋が無事とは限らないのだった。

踏んだり蹴ったりは、これで終わった訳ではなかった。雨漏りで腐りかけていた家は、修繕費が2000万円にのぼった。公的な支援があっても、まるまる一軒新築するに等しい出費は堪え難いものがある。「あれやこれやと慌ただしくて、よく考えられなかったので、あの見積もりこの見積もりと気づいてみたらこんなになってたの。あのとき、こっちの家をやめちゃって、いわきで暮らすことにしとけばよかった」と、愚痴とも嘆きともつかぬ言葉は続いた。しかも、家はどうにかなっても地域は荒れ放題だった。石敷だった集会場の庭は、見るも無惨に雑草だらけになっていた。これに限らず、道路だろうと水路だろうと何もかもが無惨な姿になっていた。一時は高校の生徒がボランティアで草刈りなどしてくれたが、重労働であるし彼ら彼女らも忙しいため今年は手が回らない。住民全員が帰還していないうえに、高齢者が多いため自分の家を整えるだけで手一杯だ。

小高区では沿岸部が主な除染範囲で、大悲山あたりの山間部は除染しないまま自然に線量が下がり避難指示が解除されたらしい。彼女は震災以降様々な難問に悩まされたが、線量の心配がなくなりこれで一段落つくはずと信じていた。すると、山間部も除染されることになった。この辺りの経緯が彼女の話でははっきりしないが、線量が下がったけれど念には念を入れるのか、いかにもホットスポットがありそうな山林を中心に除染しなければならないのか、とにかくお堂の近くに飯場や宿舎がつくられトラックが行き来していた。静かで落ち着いた雰囲気を求める人にぴったりな鄙びた旅館が廃業し、除染のための作業場になったのは彼女にとって相当なショックだったようだ。余生は工芸品づくりに専念しようと思い移住したのに、いまは他所の土地からやってきた人々がざわざわと動き回り、巨大なトラックが行き来している。怖くてしかたない、と彼女は言った。

人々の除染員への視線は、昨年初冬の「311への旅」に書いた。このときは相馬市の男性から話を聞いたが、ありがたいけれどいろいろ問題があり、好ましからぬ出来事や噂があるのだった。なかにはユーモラスな話もあって、こうした話題はやがて思い出として市民に共有され歴史になると思われる。だが、若者や中年の男性ばかりが全国から一攫千金を目指してやってくるのだから、ゴールドラッシュに沸いた開拓時代のアメリカみたいな状態になって当然だ。このためどこまで真実かわからないが暴力や性にまつわるひそひそ話が流布されている。

この世のあらゆる場所に、あらゆる売春の形態があって当然だ。しかし相馬市、南相馬市にソープランドはない。いわき市にソープランドがあり、南相馬市にはデリバリーヘルス業者があるが、相馬市はこの手の風俗産業がほとんどない。南相馬市のデリヘルは、地方の町なので業者の数が少ないし在籍している女性の数もまた少ない。では需要がないのかと言えば、日本のどの都市、世界のどの都市とも何ら変わらないはずだ。ということは、どこかに何かがある、どこかに誰かがいるのだ。休日にいわき市に遠征する人もいるようで、復興作業で人が集まるようになったからだろう、いわき市の干涸びたようなソープランドに若い女性が入ったという話もある。しかし、近場のデリヘルやどこかにいる誰かを利用する人もとうぜん多い。復興事業に携わる人が数多く停まっている某ビジネスホテルに女性をデリバリーできると宣伝しているデリヘルがあったりする。

除染や復興事業でデリヘルやどこかにいる誰かの需要が高まるなら、住民なら動向を空気から読み取れるようになるし、うわさ話も広まる。男性はまだしも、女性たちはいろいろ感じたり思ったりすることがあるだろう。こうした性にまつわるあれやこれやだけでなく、余所の土地から男がやってくること、除染や建設工事のざわざわした動き、といったものから漠然とした不安が女性中心に芽生えるのはしかたない。これは第二次世界大戦終戦時の進駐軍がやってきて女性が慰みものにさるれるといった恐怖のようにはっきりしたものではないが、人によって度合いは違うもののなんとなく気になる空気の変化になっている。

小高の老女も、トラックや作業の騒音だけでなく、見知らぬ人々がざわつくことに嫌気と恐怖を感じていた。除染を指示する人、研究のためしばしば駐在する東京の大学教授と学生たちは、市長や役人には挨拶に行くだろうが住民を素通りして集落に入ってくる。どんな会社、どんな大学か知らせるのは地域の広報か人づての情報だけだ。だから彼女は、避難指示解除になるほど安全になったのにどうしてまた除染する必要があるのかと憤っている。除染には確たる理由があるのだろうが、彼女は感情的になっているし、また納得できるだけの説明が成されていないのだ。

彼女は移住なんかしなければよかったとまで言っている。東海村に住んでいた1999年、東海村JCO事故があった。作業マニュアルの組織的な無視が常態化し、杜撰な作業でウラン溶液が臨界に達した事件である。このとき東海村の村上達也村長は国の対応を待たず村民に屋内退避を指示した。その後、半径350m圏の住民に避難要請、500m圏の住民に避難勧告、10km圏内の住民に屋内退避と換気装置停止の指示が出された。彼女はこの事故の当事者だったのである。大熊町と双葉町にまたがって原発があるのは知っていたが、15km以上離れているし、まさかまた放射線関連の事故があるとは思わなかった。放射線がらみの重大事故を、人生で二度体験した人などそうそういない。彼女と息子さんくらいのものかもしれない。

息子さんはある業種の専門家だったが、震災によって福島県内の会社が倒産し、現在は除染作業の事務に従事している。共に暮らす息子が不本意だったとしても生活の糧にしている除染をひどく毛嫌いし、こんなことになって人生何もよいことがないとまで彼女は言う。そして、遠い過去の美しい思い出をいくら語っても尽きない様子で話すのだった。私たちは時に「踏んだり蹴ったり」と言うけれど、彼女と息子さんの踏んだり蹴ったりはあまりに重すぎるし、不条理すぎる。

彼女は孤独なのだ。どんなに周囲の人々が優しく、山深いとはいえ週末には南相馬などの繁華な場所に出かけられるとしても、想像を絶する踏んだり蹴ったりで過去の自分さえ遠い世界の別人のようになって、現在のつらい自分しかこの世にいない気持ちなのだろう。

私は老女と分かれ、教えられた通りお堂を巡った。1000年前につくられた仏様は風雨によってお顔が崩れ落ちていたり、お姿そのものが消えかかっているが、もっとも保存状態がよい薬師堂石仏群は仏とはいったい何かを静かに力強く物語っている。いや、お姿のほとんどがなくなっている阿弥陀堂石仏群も、消えることで仏について教えてくださっているのかもしれない。観音堂石仏群の中央にあらせられる9mの千手観音座像は、いまの私には説明不可能な圧倒的な仏様だった。なにがわかったか。なにもわからないことがわかり、仏と仏の世界を求めた1000年前の人々の切実な気持ちに気づかされた。

仏様が見ていらっしゃるのに、どうして幾多の災害があり、東日本大震災と原発事故で人生を狂わされた人々がいたのか。はっきりしているのは、平安時代の人々もまた現在の被災地の絶望や騒がしさや踏んだり蹴ったりと等しい苦しみを味わっていたのだ。そんなことはない、現状ほどの苦しさはないと言いたい人もいるかもしれない。だったらなぜ、手仕事だけで岩肌をうがち、圧倒的な仏の世界をかたちづくったのか。

大悲山石仏 2018 福島県南相馬市小高区

福島県の大熊町、双葉町、浪江町は変わっただろうか。常磐自動車道を茨城県の関本パーキングエリアあたりまでくると、運転席左右のドアウィンドウに映る景色がどうしても気になる。とはいえ見えるもののほとんどは山地で、開けた場所に出ると緑豊かな草原ばかりである。草原は帰還困難区域の、人の暮らしの痕跡が消えかかっている元耕作地だ。季節は巡って、昨年の冬枯れが海原のうねりのような緑の原野になっただけだ。いっぽうで、除染で削り取った表土を運搬するトラックを常磐道上で昨年以上に見かけた。つまり帰還困難区域近くまで除染が進みつつあるのだ。あまりに広大な範囲であるため遅々として作業が進展しない印象があるが、着実に除染作業は進行している。ただ人間が後片付けをするには、なにもかも甚大すぎる天災と事故だったのだ。


帰還困難区域や居住制限区域の外側は、なにも知らなければ特別変わったことのない地方の日常に見える。人が行き来し、働き、買い物をしている町だ。まっとうなことだけでなく、くだらないこともある町だ。笑っている人もいれば、文句を言っている人もいる。私は2011年3月11日から数日の間に何が起こったか知っているので、空き地の意味、真新しいコンクリートの壁などが傷口と縫合手術の跡に見えるというだけである。こうした傷は、半年前と比べだいぶ癒えていた。日ごと車線を切り替えて工事をしていた道は片側二車線の美しい道路になったし、古屋を壊し新築工事をしている民家もある。でも、数キロ先は寝泊まりするのを制限された区域なのだ。もっと近づけば、道路一本隔てただけで帰還困難区域なのだ。

土地も道も地続きだから、うっかりしていたら居住制限区域に入っているし、その先も同様である。だから居住制限区域との境にはバリケードが置かれている。四つ角を曲がった先や、まっすぐ進んだ先へ入れないようにされている。人の暮らしがなくなると、植物が勢力を広げる。アスファルトやコンクリートの小さな割れ目を見逃さず、植物は上にも横にも広がっている。そうでなくても、鬱蒼と茂っている。太古の陸地に最初に上陸したのが植物だったのだと、妙なことを思い出さずにいられない景色だ。人は随分あとになって登場したに過ぎない脇役だったのだ。ひょいと跨げるバリケードの先に、建物や人の手が成したものが残されていても、これらは遺跡に成りかけの何かだ。私と同時代を生きていた人の暮らしが過去完了形になりつつあるのだ。

居住制限区域を車で走ると、工事関係者だけでなくあきらかに住民のものと思われる車と出会う。工事関係者は白いバンか小型車だが、白以外の色のSUVや軽自動車が時折走っているのだ。ふと畑だった場所を見ると、家庭菜園ほどの広さで野菜が栽培されている。本来ならこうした菜園ばかりか釣りなども禁じられ、みだりに区域外に持ち出すことも禁じられているが、そこは故郷の地であり自分の土地なのだから、自家消費ならこんなことくらいよいではないか。つまり、近隣で避難生活をしている人が菜園の世話するくらい頻繁に訪れていることになる。居住制限区域は文字通り寝起きし暮らすことを禁じられているけれど、朝来て夕刻に借り暮らしの避難先へ戻るなら何ら問題ない。このようにして、飲食店を再開させた人たちがいる。また、こうした飲食店に工事関係者だけでなく、多くの近隣住民が通っている。

小さな菜園からさらに浪江町を奥へ進み、避難指示によって放棄された幼稚園の園庭を撮影し終えたとき、園の裏門の向こうにパトロールカーのボンネットがちらりと見えた。一度行き過ぎ、バックしはじめたパトロールカーに「ほらほら来ましたよ」と思った。車の横に停められたパトロールカーから警察官二人が降り立った。撮影に職務質問はつきものだから、歩きながらにこやか会釈して、私から「撮影してました」と言った。
「どこから来ました? こちらの住民の方?」
「いえ、横浜からです」
と答え、いつ撮影意図を問われてもよいよう用意してある台詞でカクカクシカジカと説明した。あとは身分証拝見で、これもまた職務質問の定石通りの進行だった。先輩格らしき警察官が白地図の、たぶんこの場所を示す位置だろう部分に、私が手渡した免許証の内容を書き写す。「なにか危険なことがあったら困りますから、連絡先を教えてもらえます?」と言われた。これはかなり疑われている。私が窮地に陥ったときの連絡先というのは理屈からしておかしいのであって、免許証の情報以上のものを押さえておかなければならないのだろう。私は車のバックドアを開け、カメラバッグから名刺入れを取り出した。名刺より内容だったらしく、警察官は私の携帯電話番号だけを書き取った。この間に、後輩の警察官と世間話をした。警察官としてはすこしでも情報を聞き出すためだったろうし、私は変な憶測を呼ばないよう気さくな人となって喋った。
「この先、奥のほうへ行くと入ってはいけないところがありますから気をつけてくださいね」
ああ、そういう人と思われたのだ。

職務質問から解放され、園から少し離れたところで小休止していると道の向こうに老女がいた。
「こんにちは」
と声を掛けてみた。
老女はおどろいた顔をして、直後に表情がこわばった。浪江漁港近くの工事現場で竹箒を使って掃除をしていた初老の作業員もこんな顔をして、車の中の私をじっと見ていた。地元の人か工事関係者以外、浪江町にやってくる人はめったにいないのだろう。しかも、私の車は横浜ナンバーで福島県内のナンバーでも宮城県内のナンバーでもない。なぜここに来るのか、という疑問しか浮かばないとしても不思議ではない。これが国道6号線沿いを除く現在の浪江町なのだ。また震災によって全国に浪江町は知られるようになったが、もともと他県の者が奥深くまで入り込む町ではなかった。
「新聞の方ですか」
と問われた。他県の人間で黒くて大きなカメラを持っていたから、そう思われたに違いない。
「違いますよ」
さっきの警察官も私を報道の人、それも週刊誌系のカメラマンと思い、帰還困難区域に入るなと言ったのだ。

帰還困難区域に入るには住民や行政職員や作業員、救急対応の出動以外は、立ち入りが公益目的であることを証明する書類をつくり、許可され現場に入るにはガラスバッジを携行しなければならない。退出時はスクリーニング場で被爆量が検査され、一回の立ち入りにつき1mSVを超えた場合は除染が行われる。「公益」とはひどく曖昧な定義であるけれど、社会全般に益するものでなくてはならず、大報道機関や政治家でもなければなかなか許可されるものではない。だからパパラッチ含め写真を売り込みたい系のカメラマンは、規制の目をかいくぐって帰還困難区域に入ったり、入ろうとして巡視中の警察官に捕獲されているのだろう。グーグルストリートビューが公益なのかよくわからないけれど、彼らが帰還困難区域を広範囲にわたって記録しているのだから自己責任を確約させたうえで、現状のように厳重にスクリーニングし、このうえで敷居をやや低くしてもよいのではないかと感じる。こうすると収拾がつかなくなるのかもしれない。どうなのだろうか。

私が浪江町を撮影する際の定宿は相馬市の北側、常磐線の線路近くにある。東日本大震災の津波は相馬バイパスの辺りまで押し寄せたので、ホテルの1.2kmほど手前で止まったことになる。相馬市はさらに内陸側に相馬城趾、城趾と常磐線の線路との間に役所と城下町時代の目抜き通り、常磐線を超えて国道6号、さらに1km先に相馬バイパス、砂州によって太平洋から隔てられた潟湖の松川浦となっている。小さな切れ目で太平洋とつながる松川浦を飲み込んで、津波が沿岸部を飲み込んだだ。松川浦の砂州には灯台が立つ鵜ノ尾岬は、標高が40mの小山である。この岬の中腹にお地蔵さんがたくさんいて震災時の津波で流されたことを考えると、いかに海が高く盛り上がったのかわかる。

松川浦は歴代相馬氏が愛した風光明媚な景勝地で、豊かな漁場でもあった。現在の相馬港はかつて原釜港と呼ばれた米や塩の積み出し港で、漁港としては松川浦内と相馬市の北隣で宮城県と接する新地町の釣師浜漁港が中心だ。松川浦漁港と釣師浜漁港も、前述の沿岸部の耕作地帯同様に津波に被災している。松川浦周辺だけでなく、相馬市、南相馬市の沿岸部、沿岸部に連なる低地は津波による被害を受けた。浪江町、双葉町、大熊町は福島第一原発事故で避難指示が出されたため津波の被害もまた注目されたが、相馬市、新地町、南相馬市の沿岸部は等しく破壊されている。

こうした沿岸部で廃屋が未だ残っているのは、避難指示が出され住民が未だ帰還できないでいるか、帰還できなかった年月が長い地区に限られると言ってよいだろう。住民が避難を余儀なくされた場所では、連絡が取れなくなっている方もいる。壊れて家としての機能を失っていても、家屋は個人の財産であるからやたらに撤去出来ない。昨年の11月と比べ浪江町では廃屋がかなり減っていて、これはかなりの数の住民が故郷に戻るか否かの別はあっても、この先を考える余裕を取り戻していると言えるのではないか。南相馬以北はがれきなどとともに廃屋は完全に撤去されている。除染が必要だった南相馬の一部を除けば、ほぼすべての水田に苗が育ち、インフラは完全に復旧した。人々は先々を考える余裕を得る段階を過ぎ、慌ただしく現実を積み重ねているように見える。

松川浦は穏やかで、海苔養殖の支柱であるひびが点々として月並みな表現だが風光明媚な景観をかたちづくっていて、何も知らなければまさか巨大な津波で壊滅的打撃を受けた場所と想像すらできないだろう。この事実を知っていても、ふと何もかも忘れて静かな水面と風の音と鳥の声にずっと浸っていたくなる。景色に浸っていると気づいたのは、松川浦ほど汽水湖然としていなかっただろうが、南相馬一体の沿岸部もまたかつては潟湖が点在する低地だった事実だ。浜通りを縦断する国道6号を車で走っていると、往々にして沿岸部側の土地が明らかに低い。国道から数十センチから場所によっては1m以上もいきなり下がるのだ。あるいは国道だけがかさ上げされている。

小高区を訪ねた話を冒頭でしたとき、伝説「大悲山大蛇物語」について触れた。「大悲山大蛇物語」は、南北朝時代の話とされている。上方から盲目の琵琶法師玉都(たまいち)が小高にある薬師如来のご利益にすがろうとやってきて、行き倒れたところを村人に救われる。玉都はお堂にこもり願掛けをし、夜な夜な琵琶を弾いた。願掛け満貫の前日いつものように琵琶を弾いていると、武士が現れ玉都の演奏が実に見事でいつも聞き惚れていたと告げる。そして武士は自分の正体はお堂の池に棲む大蛇で、体が大きくなりすぎて池が手狭になったので、いよいよ龍に化身する頃合いでもあるから小高一帯を泥沼にしてこれからは暮らすのだと言った。いままで琵琶を聴かせてくれた礼として、おまえを助けるため教えたのだから七日以内に小高を立ち去れ。もし誰かに喋ったら、そのときはおまえを殺す。黙って立ち去れば、霊力によって目が見えるようにしてやる。と、武士の姿をした大蛇が約束し姿を消した。玉都は悩んだ末に、行き倒れたところを救ってくれた村人を見殺しにできないと相馬公の元に駆け込んで大蛇の企てをすべて話した。蛇にとって鉄けが毒と言われるので、相馬公は鍛治職人に命じて大量の釘を用意させ、これをお堂の池の周囲に打ち付けた。苦しみもがく大蛇は龍に変じ、玉都を攫って黒々した雲の中へ逃げて行った。

大蛇が龍になり小高を泥沼にするのではなく、太古の小高は、あるいは南相馬の沿岸部は沼地で、これを人々が何代にもわたって地道に水田に変えていったのではないか。このように考えると、東日本大震災の津波が「大悲山大蛇物語」に重なるように思える。これはあくまでも妄想にすぎないが、ずっと昔から数百年ごと発生した大地震と津波で水田を元の木阿弥の泥沼にされてきた人々の悔しさと悲しさが伝説のもとになっているとしか思えない。大石仏群がつくられたのも、津波による破壊と、破壊のあとの飢餓や疫病の苦しさの救いを求めたからではなかったか。現代では、国や自治体の支援があり、重機もあり、それでも数年間かかってやっとここまで復旧したが、かつては数十年あるいは数世代の時間と労力がなければ元どおりにならなかっただろう。震災に限らず、賽の河原ではないが一つ積み二つ積みすると鬼がやってきてすべて蹴散らすありさまだったろう。こうして考えると、大悲山の石仏群は当時の人々が翻弄された自然災害と無関係ではないと思われる。

東日本大震災は天罰などではないし、魑魅魍魎のしわざでもない。あくまでも天災と天災に端を発した人災である。亡くなられた方と被災された方に、しょうがないと私は口が裂けても言えない。小高区で出会った老女が「何にもよいことがない。これから先だっておさきまっくら」とこぼしたとき、私は「そんなことはないですよ。悪いことがあっても、きっとよいことが見つかりますよ」と言うほかなかった。しかし、思うのだ。いつなんどき我が身に降りかかるともしれない未曾有の大災害の到来に、いまある幸せを幸せと思わなくてはならないのではないか。そして、災害に見舞われ人災に翻弄されているかもしれない未来の私に、「しょうがない。いまある幸せを幸せと思わなくてはならない」と声を掛ける他ないのではないか。仏様は、こう言うために1000年間ずっと山腹にあらせられたのかもしれない。

大悲山石仏 2018 福島県南相馬市小高区

Fumihiro Kato.  © 2018 –
Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited. All Rights Reserved.

 

Share this Post:

About Fumi-Hiro Kato "HIRO K"

加藤(文)文宏 / Fumihiro Bun Kato 写真家・作家 / Photographer Author ・北海道北見市生まれ。 ・大学卒業時までに詩集「無題あるいはサラバ」、同「Cadenza」発表(共に絶版、在庫なし。「Cafebza」別装丁私家版のみあり)。 ・スタジオ助手、写真家として活動の後、広告代理店に入社。 ・2000年代初頭の休止期間を除き写真家として活動。(本名名義のほかHiro.K名義他) ・広告代理店、広告制作会社勤務を経てフリー。 ・不二家CI、サントリークォータリー企画・取材、Life and Beuty SUNTORY MUSEUM OF ART 【サントリー美術館の軌跡と未来】、日野自動車東京モーターショー企業広告、武田薬品工業広告、他。 ・長編小説「厨師流浪」で作家デビュー。小説のほか、エッセイ等を執筆・発表。 ・獅子文六研究。 ・インタビュー & ポートレイト誌「月刊 IJ」を企画し英知出版より創刊。同誌の企画、編集、取材、執筆、エッセイに携わる。 ・各メディアにおけるスチル撮影。 ・オリジナルプリントの製作、販売。 ・JSAHP正会員