Fumi-Hiro Kato "HIRO K"/ 4月 13, 2018/ 海景/seascape

人間であることが嫌になりながら人間以外の存在になれる訳もなく、うんざりしながら人間の社会で生きている。往生際が悪いのだ。ここまで他人を信じず期待しないようになったのは、やはり若輩者として社会に出てからで、更に徹底しなければならないと思い極めたのは四十代以降のことだ。それでも徹底できない私は気持ちがくさくさしはじめると、しばらく海を見ていないのに気付く。海がどうしてくれることもないのだが、どうしてくれる訳でもないお節介のない世界のおかげでたいそう気が楽になる。ひとりぼっちはいいなあと思う。

愛してくれる人と愛したい人がほんの一握りの出会いの中にだけにあり、他のすべてはどうでもよいものであり、どうでもよいほとんどすべての大部分または全体は一度関係を持てば足を引っ張り頭を押さえつけてくる者ばかりで、こうしたくそったれなものごとを片付けシンプルなものへ整理するには金以外の手段はないのだった。金だって、金の切れ目が縁の切れ目である。私は嫉妬の感情がほとんど湧かず、嫉妬の出発点にある自分の能力を超えた人物に対する敗北感が濃厚になると、ただただ自分は駄目だなと思う。これがよいのかわるいのかなんとも言えないけれど、珍しいのは間違いない。この世の人間の大多数は四六時中嫉妬して負けを認めない代わりに足を引っ張り虚勢をはる。大多数の人が極々普通に抱く感情と感情に従った行動なので、人間味がある人間らしい常識的なものなのだろう。私ごとき者にさえ、どんぐりの背比べだろうに落とし穴やハエ取り紙のような邪魔が入る。こうしたものごとが嫉妬による行為であると即座にわかれば心の整理もつくのだろうが、がんじがらめにされても嫉妬心が乏しい人間味のない私は気付かないのだから愚か者だ。

小学一年、二年を過ごした新潟の小針の砂丘に、買ってもらったばかりのおもちゃのトランシーバーを片側だけ持って出かけスイッチを入れスピーカーを耳に当てているのがよい気分だった。ほとんどずっとノイズだけ聞こえる間にまに誰かが発信した音声が混じる。聞こえそうで聞こえない感じというか、はっきり誰かの声であるのはわかり単語は聞き取れるのだけどちょっとだけ理解できない程度に聞こえることがあった。何分間も続くこともあった。大概は大人の男の声で日本語であったが聞きなれない外国語を受信するときもあった。あれは朝鮮語だったのかもしれない。それとこれとは無関係だろうが、あの時代、あの辺りの新潟の海岸から北朝鮮に拉致された人が少なくない。

人恋しさという言葉を使いこなせる年齢ではなかったが、これが人恋しさの一種であったのは間違いなく人恋しさとひとりぼっちの微妙な配分の割合が気持ちよかったのだ。たとえば、何も予定のない日曜日の遅い朝にベランダに出ると遠いところからヘリコプターのプロペラ音だけ聞こえるような感じと書けばわかってもらえるだろうか。両者の配分は折々に変わるのだけれど、人間であることが嫌になるたびに人恋しさの成分比は少なくなっていった。しかし、無になった訳でもない。人恋しさとひとりぼっちの比は、恐ろしさの塩梅でもある。孤独と言ってしまうと違うものになるので、生き物すべてが持つ根源的で唯一の恐怖と言い表すべきものだ。小針海岸の砂丘でトランシーバーを耳に押し当てているとき聞こえた声は、人恋しさを感じるものであり恐ろしさそのものでもあった。

こんな気持ちを味わうため、人間であることに辟易し他の人間が嫌になった私は今なら九十九里の海に向かう。私が暮らしている場所から九十九里より近い海は磯であったり人出が年がら年中多いので、人出が少ない浜を求めて東へ車を走らせるのだ。九十九里から鹿島灘の、陸上の生き物を圧倒して拒絶するようなスケールと、うっかりしていると海に殺されそうな具合が好ましい。あの世と言ってもよいような景観と、あの世と現世の汀、いまわのきわを感じさせる場所で生きている自分を再確認するのだから手垢がついた言い方をするなら生きる力をもらっていることになる。怯えているのだが同時にせいせいしながら、臨死体験を報告する人のように写真を撮ってくるのだ。

 

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