311への旅 鹿島灘 3カット

(311への旅 千葉県飯岡 2カット)から続く。

この旅を思い立ったのは東日本大地震発生から一、二週間ほど経った日の夜だった。新聞やテレビは連日福島原発の事故と、関東一帯で計測された放射線の値について落ち着きなく報道していた。この狂騒とも言える状態は、半年以上経過した2011年10月14日に世田谷区の住宅から最大毎時3.35シーベルトの放射線量が検出された話が大騒ぎになったことから分かるように、より震災の日に近い時点ではさらにけたたましく不穏な話題が飛び交っていたのだ。世田谷の一件は民家の床下にあった瓶詰めの古いラジウムが発していた放射線と判明したが、皆が「シーベルト」という単位にびくびくしていたのである。斯く言う私が住む地域近くでも高い放射線量が計測され、これは中華人民共和国が1950から60年代にかけて頻繁に実施し、その後も1990年代まで行われた核実験由来の放射性物質が原因であろうと判明した。こうした羹に懲りて膾を吹くを地でいく狂騒の中、福島へ行かなくてはと考えたのだ。実行に移すのが大幅に遅れた理由は前章までに記したのでここでは割愛するが、それにしても当時の私は闇雲すぎた。「この眼で見て何かしなければ」と言えば聞こえはよいが、野次馬と蔑まれても仕方ない無計画さだった。

その後、私は「海景」と名付けたシリーズの写真を撮影しながら、関東から中部地方の海岸を歩き、気持ちを整理しつつ自らの写真で何が可能か自問自答した。2017年3月31日、私は茨城県神栖市南浜の海と風力発電所を撮影した。浜を守る巨大な波消しブロックのはざまに、あきらかに供えられたものとわかる小菊の花束があった。この地で津波によって亡くなられた方はいらっしゃらないようなので、震災とは別の事故で命を落とされた人の魂を慰めるための花束だったのだろう。だが、鉛色の空の下、荒れる海の傍にあった小菊の花束は強烈な印象となって私の眼を釘付けにした。人の命。もうこの世にはない魂。その命と魂を、残酷で殺風景で無機的な風景から守ろう、慰めようとする人の心が小菊となって自然と対峙していたのだ。思想を用意して「旅」をしても詮ないことを、小菊を前にして私はやっと悟った。野次馬であるだけでなく、私は力みかえっていたようだ。

茨城県もまた東日本大地震による津波の被害を受けた。被害を受けたのだから良いことなど一つもないが、不幸中の幸いは前述のように津波で亡くなれた方がいなかった点である。より西に位置する千葉県の飯岡で人命を奪った津波が、鹿島灘では主としてい浸水や物的被害を与えるに止まったのは海上から浜にかけての地形、砂浜の影響だったようだ。飯岡では海中の地形が災いして津波が増幅されている。九十九里浜一帯で被害が限られたものであったように、砂浜が津波のエネルギーに歯止めをかけたのだ。これを教訓として、茨城県は砂浜を守るだけでなくかさ上げする公共事業を行なっている。

しかし、何も起こらなかった訳ではない。銚子半島を突っ切る利根川の東側に沿って通る国道124号線を超えて茨城県神栖市は浸水した。神栖市は砂州が発達したかのように平坦な起伏が少ない地形で、浜から利根川河岸まで海抜が大きく変わらない。このため堤防を超えたり河川に侵入した津波が、内陸へ奥深く侵攻した。当時の状況を調べると、砂浜から沿岸部は泥田のようになっている。124号線とほぼ平行して海側を通る117号線の鹿島灘側は、かつて砂丘の終端部だった。有史以来、人が開墾し砂を押しのけ、近年では海浜工業地帯が開発されている。こうした人の営みは砂丘との闘いであったが、砂丘は同時に津波から人と文化を守ってきたのだ。自然との調和や共存と言うは容易いが、あまりに事情は複雑である。

鹿島灘一帯の風力発電と送電線もまた、自然との調和や共存の困難さを象徴している。風力発電の施設と送電線は、近づいた私をただただ圧倒した。自然をねじ伏せようとする巨人たちの群れのようだった。これらもまた私にとって、311への旅の一風景だ。感じるままに歩き、見て、撮った。これをもって何かを言いたい訳ではない。東日本大震災を経験した景観に祈るだけだ。

 

Fumihiro Kato.  © 2017 –

311への旅 鹿島灘

 

311への旅 鹿島灘

 

311への旅 鹿島灘

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