311への旅 千葉県飯岡 19カット

東日本大地震の被災地を関東在住者は「東北」と思い込んでいる節がある。かく言う私も地震から半年ほどの間、東北が被災した震災と認識していた。つまり、地盤の液状化を除けば政治と経済の混乱、人心の混乱、物資不足、計画停電といった二次的、三次的な被害のみを関東は被ったと思っていたのである。何気なく読んでいたネットニュースの記事で、千葉県旭市飯岡に津波が押し寄せ亡くなった方が多数存在していたことを知ったとき、幾度となく放映された東北の海岸を飲み込む津波の映像が次々脳裏によみがえったが、おそろしいことに確たる実感がまるで浮かばなかった。失礼を承知で率直に当時の心境を書くが、現実の出来事として何も想像できなかったのである。千葉県旭市飯岡という地名すら、初耳であった。

千葉県旭市飯岡は外房の九十九里浜の東端からさらに先にあり、犬吠埼から西へ屏風ヶ浦の終点あるいは始点に位置する漁港の町だ。総武本線の飯岡駅は内陸にあり旭市の市街地に近く、周辺では店舗の名称に飯岡店など付されるが、千葉の飯岡と単に呼ぶときは漁港の後背地を指すことが多い。銚子半島の南西海岸にある屏風ヶ浦は、高さ40から50mの海食崖が10kmあまり連なる景勝地でドーバー海峡のホワイトクリフになざらえ東洋のドーバーとも呼ばれている。屏風ヶ浦の飯岡層はいきなり終わり、漁港の標高は0からせいぜい数メートルだ。この屏風ヶ浦の端に灯台がある。標高50m近い場所柄、こぶりな灯台ではあるが十分に遠方へ光を送れるのだろう。灯台のそばに展望台があり、飯岡漁港、飯岡の町、九十九里、太平洋を一望できる。漁港と外海は東西二方向から突堤で仕切られている。より長く屈曲した東の突堤にはわずかだが砂浜がある。展望台から眺める漁港の海面は油を流したように静まりかえっているが、東の突堤には太平洋から次々波が押し寄せる。この東の突堤を越え、高さ7.6mの津波が飯岡を飲み込んだのだ。

東日本大地震発生の一時間後、津波の第一波が飯岡に到達した。このとき海岸に近い家は浸水し、避難した人もいた。だがさほど大きな津波ではなかったため、波が引いた直後から人々は自宅へ戻って行った。地震発生の二時間半後の17時26分、沖合で複数の津波が複合したうえに海底の地形も合間って海の膨らみが増幅され、高さ7.6mの第二波の津波が飯岡を襲った。チリ地震の津波を経験した人でさえ、第二波の到来と規模は想定できなかったという。自動車は流され、家は破壊され、人も海に飲まれた。漁港直近の土地は現在も更地のまま広がっている。

2017年10月1日。太平洋は寄せては返す波があるだけで、高台の展望台から見下ろす九十九里への海岸線は、更地のままの広々した空間を除けば平和そのものだった。しかし、津波発生時に展望台まで避難していた人が撮影した動画を見ると、東の突堤めがけ膨れ上がった海面が押し寄せていた。なぜ、ここに。そう思わざる得ないほど飯岡の漁港にだけ海が襲いかかっている。東の突堤は堪え切れるかに見えたのも束の間、膨張した海に飲み込まれ、このまま陸地が海原と一連なりになった。動画は言葉にならない切ない声で終わる。ファインダー越しに漁港と町を見下ろす私の眼に、太平洋の外海に飲み込まれる飯岡が重なった。動画の終わりの、あの声が聞こえたような気がした。高波が来たのではない。海が膨張し、飯岡を飲み込み、そして引くとき奪っていったのだ。

突堤はどの漁港にもある、ありふれたものだった。コンクリートの壁は人が歩ける幅があり、海側に波消しブロックが積まれている。砂浜が湾に向かって高さがあるのを考えると、突堤の上は漁港より標高が高いことになる。突堤のてっぺんで3mくらいの高さだろうか。浜と突堤はぎりぎりまで津波を堰きとめていた。だが高さ7.6mに膨張した海は突堤を乗り越え、突堤を海中の突起程度の障害物にしてしまった。高さは質量であり勢いでもあった。突堤に立ち、頭上はるかにある海面を思い浮べようとしたが無理だった。2011年3月11日17時26分に、もし私がこの突堤にいたら空はいきなり海になり、水深4m超の海中に没しつつ沈み流されたのだろう。人間は、砂浜に打ち上げられているペットボトルくらいの存在でしかない。

あの日のあの時海中に没した突堤に、なにごともなかったように釣り人がいて海に糸を垂れていた。自転車やスクーターで突堤の上を移動している人もいた。これが2017年10月1日の現実であるのはわかっている。わかってはいるが、眼前のすべてが虚構じみたものに見える錯覚に陥る。浜を歩いた。どしっりした砂質の浜で、思いの外歩きやすい。浜と波打ち際に分けて海岸風景を見るのが人の常だが、この砂が海の中へ水平線の先までずっと続いているように感じられ海と陸を分けて考えられなかった。これは恐ろしい感覚だった。陸を信じられないなら、何を信じたらよいというのか。

30年ほど前の10月、私ははじめて九十九里海岸に立った。金曜の深夜に東京大田区からレンタカーの白いサニーを駆ってマップルの地図を首っぴきで千葉の市街地に出て、一旦仮眠し、朝早くモデルの女性をピックアップして九十九里海岸へ向かった。九十九里は名前の通り遠大で、いったいどの浜で撮影したか手元にある過去のネガを検討してもわからない。撮影を終え女性を自宅に送り届けたとき、たしか午後六時過ぎであたりは真っ暗になっていたから、かなり東寄りの九十九里の浜だったのだけは確かだ。飯岡の近くだった可能性は高い。あの頃の私は写真に無我夢中だった。レンタカーを返し帰宅した私は、何本もの135フィルム、120フィルムを次々現像し、翌日の日曜は暗室でプリントを焼き続けた。これでもまったく疲れを感じなかった。当時と比べ、現在の私は様々に変わった。自分のSUVで飯岡を目指し、マップルではなく新型のナビゲーションシステムを頼りに走った。アトリエに戻ってデータを一気に吸い出し、現像の準備まで進めたが疲れを押して仕事をしてよいことはまったくないので急ぐのはやめた。あの日に若者だった私は、いま老人の域へ足を半歩踏み入れている。初夏に二度の入院と一度の手術を経験したが、医局長の先生を除けば担当医も看護師もみな私より若い人だった。

あの日、ずっと海と向き合って撮影していたが津波について一度たりとも思い巡らさなかった。バブル景気到来以前の時代で、写真の仕事をし、大学では社会学を勉強し、軽量鉄骨造の風呂なしアパートに帰ればなけなしの金で買ったアルバムに耳を凝らし、これが認識できる世界のすべてだった。これでは世界について何も知らないに等しい。そして、こうした時間が永続するものと信じて疑わなかった。いまの私は海景と銘打った連作写真を制作しているので度々海へ行くが、行くたび津波を連想せずにはいられない。こればかりでなく、東日本大地震は発生当時四十代だった私をがらりと変えた。震災以前に、写真の仕事、広告制作の仕事、文芸の仕事、雑誌の創刊と目まぐるしく様々なことをして、二十代当時より世界は広がりを見せているはずだったが、こんなものは屁でもないくらい震災と震災が引き金となって発生した混乱は私をまったく別の場所へ吹き飛ばした。ものごとの永続と平和を、確信や確証を、関係の安定を、まったく信じられなくなっていた。

地震の揺れ、停電によって情報を断たれたまま過ごした一夜。これらは今から思えばたいした出来事ではなかった。翌日テレビで目にした津波の映像、福島第一原発の事故のあらましと経過、原発事故にまつわるすべてのデマといかがわしい人々の跳梁跋扈に、私の内面は大きく変わらざるを得なかった。変化をきたした内面から見る世界は、とうぜん以前と別物であった。私にとって東日本大地震は人災の始まりだった。

恐怖が人の理性を狂わすのは当然だ。以前にも、恐怖で性格と態度が変わった人を目にしたこともあった。恐怖に乗じて他人をたぶらかす人を見たこともあった。いずれも恐怖が去れば、人は元どおりに近いところまで落ち着きを取り戻したし、悪意ある者は群衆にまぎれ姿を消した。ところが東日本大地震は、この世に沈殿していた汚泥ごと何もかもかき回し、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪、瞋恚、邪見は現在も日本を浮遊し続けている。嘘とでたらめ、無意味で無益なおしゃべり、中傷、他人の仲を裂く言葉、強欲、憎しみ、誤った見識が浮遊するだけでなく拡大再生産されているのだ。ことに原発事故は嘘つきと嘘によって金儲けをする畜生にとって格好の餌になった。原発事故こそ人生のつまづきの原因であると自分と他人を騙す人々は、自尊心のためデマを声高に騒ぎ立て続けている。それまで指をくわえ羨望の眼差しを向けていた相手、うらやみ卑屈にならざるを得なかった相手、小馬鹿にして小突き回したかったが他人の目が気になり陰口に留めていた相手を、偽りの正義の旗を立てて集団で攻撃しはじめた。こうすることで苦しむ人ばかりか自死を選択した人がいるというのに、自らの過ちを正すことはなかった。ここに人の性善なんてものはひとかけらもない。

そんな人物がいることすら知らなかった相手から、私も長らく嫌がらせを続けられ大切な仕事を邪魔された。私ごときをうらやんだところで何になるのか、と思うのだが食らいつくきっかけがあれば誰にだってこうすると犯人は自白している。放射能によって胎児は奇形化し、女性も男性も生殖能力が怪しくなり、人々は病に犯されつつあると特定の地域、特定の個人をSNS上で名指して誹謗していた男は、自らの失敗によって怪しくなった人生の現状と先行きを誤魔化すため原発事故を利用し、こうした輩に批判的だった私を陥れようとしたのだった。この男の嫌がらせが執拗であったため、東日本大地震を巡る仕事は延期せざるを得なかった。いつ、何を、男によって悪意ある引用や抜粋され被災地と故人と被災者を傷つけるかわからなかったからだ。だが、私はもう待てない。

飯岡から私の旅ははじまる。東日本大震災発生まで世界をあまりに知らず、能天気だった自分を恥じ、いつまでも何もできなかったことを謝罪し、祈るため旅に出る。社会問題を報道しようとしているのではない。ことさら悲劇を描こうというのでもない。明るい未来を示唆するためでもない。そこへ行き、呼吸し、見て、写真を撮影するだけで精一杯だが、こうするほかに謝罪し、祈る術がみつからないのだった。いったい誰に、どのように、何を謝罪し祈るのかすら漠然としている。この曖昧を整理するため、旅に出るのだ。

 

 

 

Fumihiro Kato.  © 2017 –

311への旅 東日本大地震 飯岡

 

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