311への旅をはじめる

2011年3月11日から六年半が過ぎた。歴史の教科書に書かれている出来事の年月日を暗記しきれなくても、現代に生きる私は東日本大地震の日付を忘れることができない。今日に至るまで、東日本大地震とは何であったかをこの眼で見て考えたいと幾度となく願いつつ、叶えられずにいた。問題は多岐にわたりからまりあっているが、ひとつは私の肉体の問題、もうひとつは被災者や被災地域への嫌がらせの懸念で、あとは瑣末なあれこれでしかない。

 

撮影行為と撮影された写真は、意図しなくても残酷な性格を帯びるものだ。レンズを向けシャッターを切ることの不躾さ、である。さらに撮影され画像として固定された写真は、第三者の凶器として使用される可能性がある。殊に写真がデジタル化された現代は、撮影者や撮影された側の気持ちなど御構い無しに、悪意や虚栄心によって画像がネットに拡散され収拾がつかなくなるケースが後を絶たない。これが、まさに懸念だった。現に、東日本大地震によってもたらされた国難を人生失敗の元凶であると自らを誤魔化す口実にしている馬鹿者どもから私は嫌がらせを受け、公私共につらい状況に直面した。何があったかは、このサイトの記事をさらってもらえばわかるだろうから事と次第の詳細は割愛するが、人生のつまづきと行き詰まりを震災のせいにする輩が我が国には多数いて、反原発と称すれば聞こえがよいとばかりに被災地差別を堂々と行っているのだ。こうした卑怯者に粘着され、震災関連の作品の発表はどうしても慎重にならざるを得なかった。私は覚悟の上であっても、写真が第三者に凶器として使用された場合、被災者と被災地域にとって取り返しのつかないことになる可能性が高い。だが、馬鹿者を私と他の方々が警察に突き出した。いま馬鹿者を取り巻いている他の弱虫どもも、やがて滅びるだろう。私の体調はやや心配はあるものの撮影を続行できそうであり、これ以上は立ち止まったままではいられないのだった。

 

旅は、震災による津波で人的被害を受けた南端、外房に位置する千葉県の飯岡からはじめることにした。なぜ飯岡なのか。多くの関東在住者は、東日本大地震の被害地域を漠然と「東北」だったと記憶している。関東は地盤の液状化を筆頭に計画停電や物資不足というかたちで被害を経験したと思われていて、千葉県の方が津波によって多数亡くなられたり被災したと知らないまま現在に至っているといってよい。かく言う私も、震災から半年以上過ぎて飯岡の被害を知った。政治経済と生活の混乱の渦中にあったから知らない、では済まされない。報道の規模が小さかった、なんて言い訳にはならない。ただただ謝らなければ、と私は思った。鎮魂などと言葉を飾らず、見るべきものを見て、見たものを撮影し、現像して画像化する過程を祈りにしようと考えた。だから東日本大地震を巡る謝罪と祈りと思考は、飯岡から始めようと決めた。そう、飯岡だけでなく震災と津波さらには二次的人災の被害に遭われた方々へ、ぼんやり生きてきた私は謝らなくてはならないと感じている。

 

もし私の旅の目的が報道なら、あたりまえであるが報道写真を撮影することになる。しかし、この旅で大々的に何かを世に問おうとしている訳ではなく、新発見を期待しているのでもない。ちゃんとこの眼で見て、咀嚼して、写真を通して謝罪し祈り考えたいだけで、写真をもってして報道したい訳ではない。だが、どうしたらよいか写真的手法がわからない。確たるものが旅の先々に存在し、その存在をはっきり認識できるだろうが、私の視線の在り方に確たるものがないのだ。飯岡では、ほぼ無心で構図を取り、フォーカスを合わせ、露光を決めシャッターを切ったけれど、現像しようとするとき迷いが生じた。震災によって引き起こされた天災、人災によって亡くなられた方から叱られているような気がした。主観を反映させ画像化する私の作風を、おまえの自己肯定と承認欲求の道具にするなと咎められている気がする。でも他に術がなく、むしろ自らを偽る作風はとってつけた偽善でしかないだろう。

 

以後、何年かかるかわからないが私は北上しながら撮影する。撮影しながら、現像しながら、私は考え続けることになるだろう。なにを謝罪しようとしているのか、なにを祈ろうとしているのか。

 

311への旅 東日本大地震 飯岡